第43話 痛みとともに

 雪が降った今日、夕食は鍋だった。

 鱈の味噌鍋だったが、僕はそこに砂糖を入れる。甘味は他の味よりもわかりやすい。入れすぎて母に怒られ、妹には笑われてしまった。

 夕食のあとすぐ、僕はカーディガンを着込み自分の部屋に引っ込んだ。最近は家にいるほとんどの時間を受験勉強に費やしている。

 数学の難問に頭を悩ませていると、ちょんとシャツの裾を引かれた。ハッと振り返ると、妹の梓が涙目で僕を見上げていた。



「さっきから、こーくんてなんかいも呼んでるのにぃ」


「ごめん。集中しすぎてて気づかなかったみたいだ」



 ふてくされた顔の梓に向き直る。

 よく見ると梓の丸い瞳がうるんでいた。僕に無視されたと思ったのだろうか。

 医学部受験を決めてから、あまり梓に構ってやれなくなったので、寂しい思いをさせていたのかもしれない——と反省した僕に、梓は人差し指を立てて見せつけてきた。



「さっきお花のずかんを読んでたらね、ゆび切れちゃったの」


「……ああ、ほんとだ。少し血がにじんでるね」


「こーくんがお勉強がんばってるから、アズもずかんでお勉強しようと思って」


「そうか。えらいね梓は」



 小さな頭を撫でると、梓は満更でもない顔になる。

 僕が忙しくしていて寂しい、と言うのではなく、自分もがんばろうとするなんて。兄が思っているより、妹はお姉さんになっているようだ。

 そう考えると、僕のほうが少し寂しくなる。受験が終わるころには、一緒に遊んではくれなくなっているのではないだろうか。



「だから、はい!」


「……はい?」


「ゆび! いたいのいたいのとんでけして?」



 こーくんは魔法使いだから治せるでしょ、と瞳をキラキラさせて言った梓に、やっと合点がいく。

 前に僕が手の痛みを肩代わりしたことを覚えていたようだ。



「梓。お兄ちゃんは魔法使いじゃないから、指の傷は治せないよ」


「えー? どうして? だってまえはなおしてくれたよ?」


「思い出してごらん。傷は治ってなかったんじゃないか? 少しの間痛くなかったかもしれないけど、そのあと痛いのが戻ってきただろう?」


「うーん……そうだっけ?」



 梓はこてんと首を傾げる。

 よく覚えている、と感心することもあれば、そこを覚えていないのか、と驚くこともある。この小さなお姉さんの頭の中をのぞいたら、きっと面白いだろうなと思う。


 僕は梓の手を引いてリビングに向かった。

 キッチンで洗い物をしていた母が、僕らを見て少し怖い顔をした。



「こら、梓。お兄ちゃんは勉強してるんだから、邪魔しちゃダメだって言ったでしょ」


「じゃましてないもん。ちょっとおねがいしに行っただけだもん」


「それを邪魔するって言うのよ。ごめんね、虹。戻っていいわよ」


「いいよ。休憩しようと思ってたし」


「ほらあ。アズ、じゃましてないでしょ?」



 胸をはる梓に苦笑して、母が洗い物を再開する。

 医者になりたい、と言った僕に、母は少なからず驚いてはいたが、ダメだとは言わなかった。医学部となると、経済的な負担はかなりのものになるはずだ。それでも応援すると言ってくれた。あんたの好きにやってみなさい、と。

 羽子さんの元に通っていたときと同じように、黙って見守ることを約束してくれた母。生まれたときから迷惑をかけ続けた自覚もあるし、もう一生頭が上がらないだろう。


 僕はリビングボードから救急箱を出して、梓をソファーに座らせた。

 以前は僕が消毒液や包帯をしょっちゅう使っていたが、最近はごぶさただ。僕はいま、きちんと自分の体を大切にできている。



「おくすりぬるの?」


「絆創膏を貼るんだよ」


「いたいのとんでけ、してくれないの?」



 不満顔の梓の頭を撫で、僕はうさぎのイラストがついた絆創膏を取り出した。

 細い指に慎重に巻きつける。不器用なわりにきれいに巻けた。医者を目指すなら手先の訓練もしていかなければな、と思う。



「ばんそーこーかぁ。いたいのとんでけが良かったな」


「梓はまだわからないけどしれないけどね……」



 救急箱の蓋を閉じ、梓の小さな手をとる。

 すべすべて柔らかい子どもの手。痛みなんて知らずにいてほしいと願う気持ちはあるけれど、それが果たして幸せなのかどうか。



「痛みが、生きるために必要なこともあるんだよ」



 少なくとも、僕には必要だった。

 僕が僕として生きるためには、どうしても必要だったのだ。

 しかしそれが幼児に理解できるわけもなく、案の定梓は「なんで?」とムッとしたように言う。



「いたくないほうがぜったいいいのにぃ」


「そうだね。だから、梓がどうしても痛みに耐えられなくなったときは、おまじないをしてあげるよ」


「いまはしてくれない?」


「梓はその指の痛いの、我慢できない?」


「……できる」



 梓が僕の腕に飛びこんで、ぎゅっとしがみついてくる。

 少し重くて、たぶん温かい。その体を出来るかぎり優しく抱きしめる。



「もっといたいのになったときは、とんでけしてね?」


「うん」


「ぜったいぜったい、やくそくだからね?」


「うん。約束」



 そのときは、君の痛みは全部僕がもらおう。

 ひとつ残らず、僕の中にとんでこいと願おう。



「じゃあ、こーくんがいたいときは、アズがとんでけしてあげるね」



 僕の小指に小指をからめて笑った妹。

 今度は、抱きしめる力を加減することができなかった。



 

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