第26話 訪れたのは

 骨を折られるのと海に蹴り落とされるのでは、どちらがマシなのだろう。

 僕は泳ぎは得意ではないので、溺れる可能性がある。それなら骨をいくつか折られるほうがマシか。あとで母にひどく怒られるのは間違いないが。



「羽子さん、どう? 寒くない?」



 司狼がくれた毛布で僕ごと羽子さんをすっぽり包む。



「うん。素直にお礼は言いたくないけど、あったかいよ」


「お礼を言わなくても、司狼は気にしないと思うよ」



 きっと今日あったことも、明日には忘れている。

 執着がないから忘れるのか、忘れるから執着がないのかは不明だが、司狼はそういう奴だ。



「……あの人と、本当に仲が良いんだね」


 羽子さんは困ったように言うと、ため息をついた。


「心配だなあ」


「心配って、何が」


「忘れないでね、虹。あなたは生きてるんだから」



 その呟きは、彼女を抱きしめている僕ではなく、もっと遠くにいる誰かに語りかけているかのようだった。

 どこか寂しげなその声に、僕の胸がきゅうと奇妙な音を立てて収縮したのを感じ、眉を寄せる。少しだけ息苦しいようなこの現象の名前を、僕は知らなかった。


 それからしばらく他愛のない話をした。

 僕らはお互いのことをほとんど知らなかったので、話題は探さなくてもいくらでもあった。主に家族のことと、どんな人生を歩んできたのか。お互い父親がいないことと、妹がいるという共通点があった。妹を言い表す際には「生意気」と「真っすぐ」でかなり違ったが。

 羽子さんは一浪して美大に入学したそうだ。それなのに、入学した途端病気が発覚し、ほとんど通えないまま入院したらしい。まだ大学に籍があるのは彼女の希望ではなく、親のあきらめの悪さなのだと彼女は笑った。



「友だちはできたけど、すぐに疎遠になっちゃった。相手が冷たいんじゃなく、私がそうさせたの。私も送るはずだった理想のキャンパスライフを満喫している友だちを見て、平然としてられるほど人間できてなくってさ。どうして私だけ……って、考えたってどうにもならないことばかり考えて、どんどん自分が腐っていくのを感じるのに疲れたの」



 ひとりになったほうが平穏に過ごせて、病気や時間という現実と向き合うことができた。

 波のリズムに合わせるように羽子さんはそう語る。



「余計なものを全部取り払って行ったら、私に残ったのはすごくシンプルなものだった」


「何が、残ったの?」


「描きたいっていう欲求」



 その欲求を口にしたときの羽子さんの声は、力強く、エネルギーに満ちていた。

 熱というのはもしかしたら、こういう音をしているものを言うのかもしれない。



「それっぽっちしか残らなかったのは笑えたけど、でも嬉しかったよ。ぶっつり途切れたはずの道が、急に目の前に現れたみたいで、なんだか爽快だった」


「そうか……。それで羽子さんはこうして、無茶をして海まで日の出を見に来たんだね」


「そういうこと。無茶だろうが、歩くよね。立ち止まってても、きれいな景色は見えないんだからさ……」



 僕はもう少しだけ彼女を抱く腕に力をこめて願った。

 どうかこれから見る日の出が、彼女の描きたいものであることを。最期に描くべきものであることを。


 やがて羽子さんは、僕にもたれながら静かな寝息をたて始めた。

 安らかな寝顔にほっとする。どうやら眠れるくらいには体調は安定しているらしい。痛みがひどいときは眠ることさえできないと聞いていたから、しばらくは大丈夫だろう。


 彼女が眠りやすいよう引き寄せ、しっかりと毛布で包む。

 骨の浮いた体は固く、消毒液の匂いがしみついた髪は乾いていた。それでも、羽子さんは生きている。全力で彼女の人生を歩んでいる。

 眩しくて……とても、うらやましい。

 誰かをうらやましく思うのは、初めてのことだった。僕とはまったくちがう人たちのことをうらやましいと思ったところで、自分にはそうなれないとわかっていたからだろうか。

 でも、いまだって僕は羽子さんのようにはなれないとわかっている。それでも彼女がうらやましい。手を伸ばして、触れたくなるほどに。


 羽子さんの寝息を波間に聞きながら、僕は夜明けを待った。

 それはとても、静かな時間だった。いや、音はうるさいくらいだ。堤防に打ちつける波の音、潮の匂いを運ぶ風の音。暗い海をゆく船の汽笛に、夜空に羽ばたく鳥の声。それらの騒がしさの向こうに、静けさがある。

 僕が僕と向き合うために用意されたような時間だと思った。

 いつしか僕は広い海の真ん中に浮かんでいて、騒がしい静けさの中をたゆたっていた。

 これまでの自分を振り返り、これからの自分を考えた。

 寄せては返す波に身を任せる僕を、司狼と羽子さんがじっと見つめていた。


 永遠に続くように思えた時間にも終わりを迎える。

 段々と空が白けはじめ、鳥の声が増えてきた。ようやく朝が来る。

 僕は海の真ん中から堤防の上に戻ってくると、死んだように眠り続ける羽子さんの肩を揺すった。



「羽子さん。そろそろだよ」


「う……ん」



 司狼も起こしたほうがいいだろうか。

 だが後ろを振り返ると、ちょうど階段を司狼がのぼってきたので少し驚いた。



「司狼、自分で起きたんだ」


「起きてねぇ。つーか寝てねぇし」



 寝不足のせいか、司狼は苛立ちを滲ませ煙草に火をつける。

 深く息を吸い、肺に煙を満たしながら遠くの海を見た。



「あー……こりゃダメだな」


「ダメって?」


「がっつり曇ってんだろ。多分見えねぇよ、日の出」



 僕はそう言われて初めて、日の出が見えない可能性もあることに気がついた。

 ここに来れば見られるものだと思いこんでいた。朝日は必ず昇るものだから、と。遮るものの存在もあって当然なのに、なぜ気づかなかったのだろう。

 腕の中で、羽子さんがもぞもぞ動く。

 毛布から首を伸ばし、彼女も遠くの海を見た。静かな目をしているが、何を思っているのだろうか。

 昨夜から空には雲がかかっていた。日の出が見えない可能性に気づいていれば、羽子さんに無茶をさせることはなかっただろう。失敗した。


 そこからは、僕らは無言で日の出の時間を待った。

 空全体を厚く青黒い雲が覆っているのがはっきりと見えても、誰もその場を離れようとはしなかった。

 やがて、水平線との境目あたりの雲が薄くなっている部分が、明るいオレンジに染まるのが見えた。

 日の出だ。だが、僕らが待っていた、司狼がすごいと言っていた光景は、僕らの前には現れてはくれなかった。


 司狼が何本目かの煙草に火をつける。羽子さんは動かない。僕は、迷っていた。

 彼女にかける言葉は、何が適切なのか。

 また見に来よう、と気軽に言える相手ではない。今回の病院脱走で、きっと羽子さんの行動は制限されるようになるだろう。監視のようなものもつくかもしれない。それに彼女は、次の機会を待てるほどの時間があるかもわからないのだ。

 そう考えると、ますます強く思う。

 見せてあげたかった、と。今日この瞬間、羽子さんに見せてあげたかった。



「……ごめん、羽子さん」



 気づけば口をついて出たのは、迷っていた言葉たちとはまったく別のものだった。

 羽子さんが僕の腕の中で、ため息混じりに笑うのがわかった。



「何で……謝るかなぁ」


「羽子さん? ……羽子さん!」



 腹を抱えるように体を丸め、羽子さんが震え出す。

 青白い顔を歪め、うううと獣のようなうめき声を上げる。



「羽子さん、痛いの?」


「どうした、虹」



 司狼が煙草を投げ捨て、そばに来る。

 僕は「痛いんだと思う」としか言えない。



「羽子さん。薬は? 持ってきてるよね?」


「ううーっ」



 僕の問いに答えられないくらいの苦痛らしい。

 羽子さんの顔にはあぶら汗が浮かび、目からは涙がこぼれていた。



「救急車呼ぶか? それとも連れてったほうが早いか。こっから近い病院、どこだっけか」



 淡々と言いながら、司狼がスマホを操作し始める。

 僕は何をしたらいいのだろうか。わからない。痛いとは何だ。痛いとき、普通の人はどうするのが——。



『椿坂羽子さんが痛みを訴えたら、君が手当てするんだよ』



 頭に、おじいちゃん先生の声がよみがえった。

 自分の手の平を見下ろす。そうだ、手当だ。人は痛いとき、痛いところに手を当てる。


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