第25話 見えない欲求
羽子さんの夜空を閉じこめたような瞳に、僕が映っている。
でも辺りは暗く、自分がどんな顔をしているのかまではわからない。彼女の目に、いま僕はどんな風に見えているのだろう。
「虹は、私のことが知りたかったんでしょ? 私がどうするのか、どうして生きるのか、知りたかった。ちがう?」
「……わからないよ」
「そう? でも虹、けっこう質問が多いんだよ。興味がなければわざわざ質問なんてしないでしょ。だから虹はたぶん、私のことが知りたいの。知りたいって気持ちも立派な欲じゃない?」
知りたいという気持ちが欲?
それなら、どうして自分が周りの人とはちがうのか、何がちがうのか。そんなことを考えるのも欲になるのだろうか。
なぜ周りの人たちは、他の人の気持ちを当たり前のように知ることができるのか。痛みがわかれば、普通の人たちと同じになれるのだろうかと、知れるはずもないものを知りたいと思うのも、欲になるのだろうか。
「知りたい……」
「どうして虹は私のことが知りたいの?」
羽子さんが、青白い顔で僕を覗きこんでくる。
「私のこと、好きになっちゃった?」
ドクンと心臓が大きく跳ねた。
彼女の大きな瞳が、僕を見つめている。僕自身にもわからない僕の心を、見透かそうとするように。
少しの間僕らは見つめ合っていたけれど、彼女はにっこり笑うと先に目をそらした。
「でもダメだよ、虹。私のことは、好きになっちゃダメ」
「……どうして?」
なんだか、これでは本当に僕が羽子さんのことを好きみたいじゃないか。
そうは思いながらも、聞かずにはいられなかった。確かに、僕は彼女のことが知りたくて仕方ないらしいと、ようやく自覚した。
羽子さんは僕の腕にぎゅっとしがみつくと、なぜか機嫌が良さそうに言った。
「だって、絶対報われないからね」
楽しげな声に、僕は首を傾げる。
「報われないといけないの?」
「えー? そりゃあ、報われないのはつらいでしょ?」
つらい。報われないのはつらい。
僕はたぶん、ずっと色々なことを知りたいと思い続けている。そしてそれが報われたことは、たぶんない。
「つらい……悲しいってこと?」
「悲しいでしょ。傷つくのは間違いない……って、そっか。虹は傷の痛みも知らないんだっけ」
傷は痛い。「悲しい」と「つらい」も痛いに近いものらしい。
僕は過去に、悲しかったりつらかったりしたことがあっただろうか。あったのかもしれない。けれど、思い出せない。
「痛くなくても、傷はないに越したことはないよ。だから虹は、友だちね」
羽子さんの言葉に、僕は無言で返した。
彼女は僕を思って友だちだと言ったのかもしれない。でも僕は、それは嫌だなと思った。悲しくてつらい傷を負ってみたい。
また少し、包帯の下が疼いた。
背後でシュボッと音がしたので振り返ると、司狼が銀色のライターで煙草に火をつけているところだった。
暗闇の中で小さな火がチラチラ揺れ、司狼の整った顔を照らしている。
司狼がこちらを見てニヤリと笑った。だが星のない夜空に向かって煙を吐き出すだけで、何も言ってこない。たっぷり溜めこんで、あとで盛大にからかってくるつもりなのだろう。あの獣のような目がそう言っている。
「でも……友だちの友だちは友だちだって言う人もいるけど、私はちがうからね」
司狼をうかがう僕を見て、羽子さんはそう忠告した。
余程相性が悪いんだなと、僕は少し意外に思いながらうなずく。僕のような人間にも最初から親しげだった羽子さんなら、誰とでも仲良くできそうなものだが、そういうわけでもないらしい。意外に好き嫌いが多いのかもしれない。
逆に司狼は誰に対しても変わらない。来るもの拒まず、去る者追わず、男にも女にも同じ態度だ。それはつまり、誰にも興味がないのと同義なのだろう。
「別にふたりに仲良くしてもらおうとは思ってないよ」
「ならいいけど。車出してくれたことに感謝はするけど、仲良くなんて出来る気がしないし」
「意外と馬が合いそうな気もするけど」
ぼそりと言うと、心底嫌そうな顔をされる。そんなに嫌なのか。
もう言うのはやめておこうと思ったとき、羽子さんの体が震えていることに気がついた。
「羽子さん。寒いの?」
「うん……ちょっと冷えてきた。思ってたより寒いね」
夏とはいえ、真夜中の海辺だ。風も強い。
僕は寒さがわからないので、そういったことに配慮するのが苦手だ。言ってもらわなければ気づけない。
自分の上着を脱ぎ、羽子さんの細い肩にかけようとしたが手で制された。
「ダメだよ。虹が冷えちゃう」
「僕は寒くないからいいよ」
「寒くないんじゃなくて、寒いのがわからないだけなんでしょ? 尚更冷やしちゃだめだよ」
そう言われても、震える羽子さんをこのままにはしておけない。
少し考え、僕は抱えていた膝を胡坐の形にした。自分の太ももをポンポンと叩く。
「どうぞ」
「え。なに?」
「ここ、座って。少しは風よけになると思う」
羽子さんはわずかに目を見開くと、笑った。
お言葉に甘えて、とのそのそ動き、僕の足の上に乗る。ちょこんと座った彼女の膝にブランケットをかけた。そして前を開けた自分の上着で包むように抱きしめる。
その瞬間、あまりの細さに思わず声を上げそうになった。腕に少しでも力をこめようものなら、簡単に折れてしまいそうな怖ろしい細さだ。
真冬の朝、軒下で見つける繊細な氷柱を思い出した。つるりとしていて美しく、脆いとわかっていても触れたくなるような。
透明に輝く氷柱が、僕の腕の中で身じろぎする。
「ふふ。虹、あったかい」
「僕が?」
「うん。自分じゃわからないかもしれないけど、虹はちゃんとあったかいよ」
お前は生きている、と言いたいのだろうか。
歌うように彼女は続けた。
「息もしてる。静かな呼吸だけど、色が見える」
「色……?」
「心臓もしっかり動いてる。優しい音色だね」
人の温もりもわからない僕にも、体温はあるらしい。息をして、鼓動もある。彼女はそれをいちいち教えようとしてくれる。自覚しろ、というように。
「自分のことは見えないものなんだよね。虹だけじゃなく、皆そう」
「じゃあ……羽子さんも?」
「当たり前だよ。だからこうして、もうすぐ死ぬって言うのに、何かを探してこんなところにまで来てるんだから」
やんなっちゃうよね、とため息混じりで羽子さんは呟く。
平気そうに見せているが、華奢な身体はまだ震えていた。僕は彼女を抱きつぶさないよう、慎重に腕に力をこめる。皮膚の下はすぐ骨なのではと思うような二の腕をそっとさすると、羽子さんは一瞬体を固くしたあと、ゆるりと弛緩した。
欠陥だらけな僕の体も、少しは役に立っているだろうかと考えていると、突然頭にばさりと重たいものがかけられた。
「見てらんねぇな」
「司狼……?」
かけられたのは固めの感触の毛布だった。
顔を上げると、司狼があきれ顔で僕らを見下ろしていた。
「車に一枚だけ積んであった。使え。俺は車で寝てくる」
「わかった。ありがとう」
「日の出の前に起こせよ。起きてすっかり朝でした、なんてことになったら海に蹴り落とすからな」
偉そうに言うと、司狼はさっさと防波堤を降りていった。
起こせと言っていたが、あの幼なじみは寝起きが非常に悪い。どれくらい悪いかというと、起こしに来た友人をボコボコに殴りつけ、病院送りにするくらい悪い。
しかもその友人は、司狼に頼まれていたから起こしに行ったのに、鼻や肋骨の骨を折る重傷を負わされたのだ。痛みを知らない僕でも、さすがにその友人には同情した。
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