第8話 死にたがり


 検査を終えて、僕は大きな怪我も見つかることなく無事家に帰ることができた。母にはしこたま怒られたが。

 妹の迎えも結局自分では行けなかったし、迷惑をかけた自覚はあったので、もうしませんと謝った。一応、心から言ったつもりだ。

 部屋着に着替え、何だか色々あった一日だったとひと息ついていると、来客があった。



「虹。ひとっ走り、死にに行こうぜ」



 そうお決まりのセリフで迎えに来た、みっつ年上の幼なじみ。

 断る理由もないので、僕は無言で彼のバイクの後ろにまたがる。

 そんな僕に笑った幼なじみ、甲斐司狼かいしろうは、僕が誘いを断らないことをよく知っていた。


 改造されたバイクは、住宅地に爆音を響かせ急発進した。僕たちの頭は無防備に生温い風を受け、髪をあおられる。

 ヘルメットはお互いしていない。司狼のバイクのうしろに乗って流すようになってから、一度もそんなものを着けたことはなかった。司狼にヘルメットをするよう促されたことも、もちろんない。

 だから「死にに行こう」なのだ。


 実際にはまだ死んだことも、死にかけたこともないのだが、はた目にはたいそう恐ろしく映るらしい。

 知人にも、まるで知らない赤の他人にも「死にたいのか」とよく言われるが、果たして僕は、僕らは死にたいのだろうか。

 法定速度など振り切って、車の間を縫うように自在に運転する幼なじみのうしろで考えるのは、いつもそんなことだ。


 けたたましいクラクションをそこかしこで鳴らされても、スピードを落とす気も安全運転をする気もない司狼。

 その彼の、脱色を繰り返して痛んだ金髪を見つめながら、今日もたぶん死なないのだろうなと思った。



 やがてバイクは、潮の匂いに満ちた海岸でエンジンのうなりを止めた。

 太陽の名残をほんの一筋残した空は、ほとんど夜に飲みこまれている。海はすでに青さをなくし、僕らの立つ防波堤の下で黒い波が騒ぎ立てていた。


 バイクを背にした司狼が、隣りで煙草に火をつける。使い捨てのライターから出るちゃちな火が、彼の整った顔を淡く照らした。

 こうして見ると、やはり兄弟、似ているなと思う。

 司狼は泰虎の実の兄だ。ふたりとも整った顔立ちをしているが、受ける印象は一八〇度異なる。


 急流にものまれることなく、どこまでも浮かび続ける流木のような司狼。

 根をどっしり張り、どんな突風にも揺らがず凛と立つ大樹のような泰虎。


 模範的な優等生である泰虎の兄とは思えないほど、司狼は破天荒な男だ。暴力事件、事故は日常茶飯事。妊娠騒ぎは数えきれず。教師を病院送りにしたり、家に火を放ったりと、昔から話題に事欠かない男だった。


 泰虎は問題児すぎて勘当された兄を、心底嫌っている。

 甲斐は優秀な人材を輩出する家として有名らしい。警察、検察、政治家、法律家など、国の中核を担う分野の上層部にそれぞれ甲斐の一族が就いているという。

 そんなエリートの家に生まれ、素質は充分すぎるほどにあったにも関わらず、気質がまったくそぐわなかったのが長男の司狼だ。

 世の為人の為に生きる道を自ら進んで外れた異端児の兄を、頭の固い弟は理解できなかったのだろう。そして司狼もまた、親の敷いた完璧なレールの上を、何の迷いもなく進む弟が理解できないようだ。

 血は繋がっていても、家族にはなれない。世の中にはそういうこともあるらしい。

 司狼はよく「家族なんてものは所詮、血の繋がった他人だ」と皮肉げに言う。



「司狼。またライター失くしたの」


「あ? 失くしてねえよ。いま使ってんじゃん」



 煙を吐き出し「変な奴だな」と司狼が笑う。先々週会った時は、女からの貢ぎ物だという銀色のライターを使っていたのだが、そのこと自体忘れているようだ。


 司狼はよく物を失くす。

 失くすのが特技なのだと本人は言っていたが、彼の弟いわく執着がないだけだという。それはなんとなく僕にもわかる気がした。

 司狼は物だけでなく、人にも執着しない。

 色の抜けきった髪に、穴だらけの耳、シャツの襟もとや袖口からのぞく墨色のタトゥーと、到底堅気には見えない風貌の司狼。その顔はおそろしく整っていて、子どもの頃からどこにいっても目立つ存在だった。

 それでいて気さくで人当たりが良く、普段は穏やかとくれば、彼に惹かれる人間は多かった。女も男も司狼の周りには常にいて、誰もが司狼の隣りという特等席を奪い合っていた。

 だが彼はそういうものに一切興味が持てないようで、来るもの拒まず、去る者追わずのスタンスを崩さない。今日彼のいちばん近くにいた人間が明日急にいなくなっても、きっと司狼は気づきもしないだろう。


 司狼のそういう執着のなさは、いつしか家族さえも他人にした。

 僕もおそらく、彼にとっては他人のうちのひとりなのだろうと思っている。いまのところ名前は忘れられていないので、こうして一緒にいるだけだ。


 そしてそれは、僕が他の人間とは少々ちがう生き物だから、司狼に覚えられているに過ぎないことを知っていた。

 つまり僕もまた、彼の特別では決してなかった。

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