第7話 痛くない、痛い

 丸い頬をさらにぷくりと膨らませ、吉村さんが怒っている。

 黒目がちな吉村さんがそうしていると、ハムスターに見えてきた。ハムスターが怒っても、多分誰も怖いとは思わないだろう。


 母が、吉村はどうしようもないドジなんだけど、小動物っぽくて憎めない、と言っていたのが少しわかる気がした。

 僕が落ちたのも吉村さんが突然大声を出したせいなのだが、本人にはまったくその自覚はないようなので、僕も黙っておく。



「ちょっと。虹くん聞いてる?」


「はあ。すみません」


「もー! 相変わらず覇気がないなあ。頭は打った? 目眩がするとか、気分が悪いとかある?」


「いえ、特に。頭も打ってません。打ったのは肩かな」


 肩を動かしてみたが、違和感はない。

 僕は元々鈍いので、違和感があっても気づかないかもしれないが。


「ちょっと見せて。……異常はなさそうだけど、あんな所から落ちたんだから検査してみないとわからないね。すぐストレッチャー持ってくるから、虹くん絶対に動かないでよ?」


「大丈夫ですよ」


「君の大丈夫ほど信用できないものはない! 何かあったら先輩が悲しむでしょ! いいからおとなしくそこにいて!」



 ビシリを指を突きつけられ、起き上がりかけていた僕は地面へと逆戻りする。

 逆らっても、吉村さんにかける迷惑が増えるだけだろう。



「はあ……」


「羽子ちゃん、悪いんだけど虹くんが動かないよう見張っててくれる? すぐ戻るから!」



 言うや否や、吉村さんは返事も聞かずに憩いの庭を飛び出していった。

 仕方なく、地面に転がったまま空を見上げる。木登りをして落ちたことはすぐに母に伝わるだろう。怒られるだろうな。

 妹の迎えをどうしようかとぼんやり考えていると、横からぼそりと声がした。



「大丈夫?」



 大きな目が、僕を見下ろしていた。

 吉村さんに羽子ちゃんと呼ばれていたが、彼女の部署の入院患者だろうか。



「大丈夫です」


「でも、血が出てる」


「痛くないんで」


 僕が答えると、羽子さんはぐっと眉を寄せた。


「……無痛症って、ほんと?」


「はい」


「痛みがわからないの?」


「はい」


「ちっとも?」


「ちっとも、少しも」


 羽子さんは増々眉を寄せた。まるで苛立ちを我慢するような顔に見える。


「それって、どんな痛みでも? 交通事故で骨折したり、病気で内臓がボロボロになっても、痛くないの?」


「交通事故に遭っても病気になっても、僕は死ぬそのときまで痛みがわからないと思います」



 僕の答えに納得がいかなかったのか、羽子さんはくしゃりと顔を歪めた。

 それはいまにも泣き出しそうな表情にも見えた。


 羽子さんは白いハンカチを取り出すと、僕に差し出した。血を拭けということだろうか。

 けれど真っ白なハンカチを汚すのは躊躇われて受け取れずにいると、彼女は強引に僕が怪我をした部分にハンカチを押し当ててきた。



「いいなぁ……」


「え」


「痛くないって、いいなぁ」



 そのセリフは過去に何度も言われてきたものだった。

 痛くないって最高じゃん。便利じゃん。羨ましい。無痛症になってみたい。

 けれどそのどれよりも、彼女の「いいなあ」は切実に響いた。僕の鈍い心をも震わせるほどに。



「虹くん、お待たせ!」



 どう返そうか迷っていると、吉村さんが他の看護師を連れてストレッチャーを運びながら戻ってきた。

 母ではなく顔なじみの看護師で、君は何をやってるの、と言いたげな呆れと怒りを半分ずつ混ぜたような目を向けられる。

 僕にできるのは「お手数かけます」と頭を下げることだけだ。



「ありがとう羽子ちゃん。あなたもそろそろ病棟に戻らないと。ひとりで戻れる?」


「私は大丈夫。早く行ってあげてください」



 吉村さんを安心させるように、羽子さんは笑った。

 彼女に見送られ、僕を乗せたストレッチャーがガラガラと音を立てながら憩いの庭を後にする。


 僕の目に最後、落ちたアザレアの絵を拾う、羽子さんが映った。



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