第6話 意味のない花


 僕の曖昧な部分もある説明に、相手は何度か瞬き微笑んだ。

 少し警戒の解けたような表情だった。



「へえ、知らなかった。君、花にくわしいんだね」


「いえ。図鑑で見たことがあるだけで、特に詳しくは」


「充分詳しいって。そっかあ。これはツツジじゃなかったか」



 描き途中の絵をながめ、彼女はどこか残念そうに呟いた。

 ツツジを描きたかったのだろうか。

 だとしたら、アザレアであると説明したのは余計なお世話だったかもしれない。僕はほとんどの場合、相手の気持ちに寄り添った言動を取れず、傷つけたり怒らせたりするのだ。



「すみません」


「え? 何で謝るの? 教えてもらえて良かったよ。ツツジじゃないなら、意味ないし」


 さらりと言った彼女に、僕はパチパチと瞬きした。


「意味、ないんですか」


「うん。アザレアだっけ? それに思い出はないからね」



 軽く肩をすくめると、彼女はおもむろにアザレアを描いたページを破りとった。

 どうするのだろうと思ったとき、憩いの庭に突風が吹いた。


「きゃっ」


「あっ」


 いたずらな風は、彼女の手から絵を抜き取り舞い上がらせる。

 やがて風が止むと、白黒のアザレアは緑の葉が生い茂る木に引っかかっていた。



「あらら。どうしよう。あの高さじゃ届かないよね」


「……取ってきましょうか」


「いや、そこまですることは……って、ちょっと君」



 僕は彼女の返事を聞く前に、木の根元へ向かった。


 根の近くから二股に別れた木は、枝もしっかりしていて登りやすそうだ。

 体の力加減が人より難しいので、あまり運動は得意なほうではないのだが、木登りくらいは出来る気がする。


 そう考えてはじめて、木登り初体験であることに気がついた。

 子どもの頃から、怪我を負いそうな危険なことはさせてもらえなかった。高い遊具に上ることや、刃物を扱う工作等もだ。

 いまだに料理もまともにさせてもらえない。

 許可されているのは、母の作った料理をレンジで温めることくらいだ。

 それは幼児である妹にだってできる。



「ねぇ、無理して取りに行くことないって。危ないよ」


「無理とか、特にしてないです」



 そう答え、僕は太く安定していそうな枝に手をかけ登りはじめた。

 見栄を張っているわけでも、意地を張っているわけでもない。取った方がいいな。そう思ったから登ることにした。


 登り始めてすぐ、気のせいか、ひんやりとして乾いた樹皮の感触に気分が高揚するように感じた。

 ふと目線を下に向けると、彼女がハラハラした様子でこちらを見上げていた。

 下で待っているだけの彼女のほうが、恐がっているように見える。


 高い枝まで来ても、僕は恐怖を感じなかった。

 ノーへルメットでバイクに乗っても感じないのだから、自分の中にそういう感情ははじめから備わっていないのかもしれない。

 痛みと恐怖は直結しているのだろうか。


 本当に自分は心も体も欠陥だらけだなと思いながら、揺れる枝の上を這い上がる。

 その先にある絵に手を伸ばしたとき「何やってるの!」と突然風船が破裂したような声が響いた。



「う、わっ」


「危ない!」



 驚いた拍子に体勢が崩れる。

 枝が大きくしなり、ひっかかっていた絵がひらりと宙に舞った。


 それをつい追いかけるように手を伸ばすと同時に、みしりと嫌な音が響く。

 直後バキリと枝が折れ、僕は枝もろとも地面に落下した。


 肩を打ちつけ無様に転がる。

 それなりに衝撃はあったが、やはり痛みはない。


 白い雲が泳ぐ空を見上げながらただ、かっこ悪いなと思った。



「虹くん! 大丈夫!?」



 青空を遮るように顔を出したのは、白い看護服を着た女性だった。


 母の後輩看護師の、吉村千夏だ。

 いまは部署がちがうらしいが、以前はよく吉村のドジっぷりを母に聞かされていた。忘れ物が多い母とどっこいどっこいだと思っていたのは秘密だ。



「吉村さん……お久しぶりです」


「お久しぶりです、じゃないよ! 木登りなんて危険なことしちゃダメでしょ! ああ、ほら! 血が出てる!」



 吉村さんに左手を指され、はじめて出血していることに気がついた。

 折れた枝がかすったのか、地面にぶつけたせいか。どちらにせよ大した怪我ではなさそうだ。痛みは元々ないので問題ない。

 そんな僕の考えを読んだかのように、吉村さんは眉を吊り上げた。



「あのねえ。いくら痛みがわからないからって、大怪我をしたら死ぬこともあるんだよ? 無痛症でも身体の作りは一緒なの! わかってる?」

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