第5話 憩いの庭


 花壇や植木の間の道がタイルで舗装され、患者が車椅子でも自由に出入りできるよう造られたここは、憩いの庭という名前で親しまれている。

 庭に置かれたベンチでは、外来患者同士だったり、入院患者と見舞客だったりが団欒している姿をよく見た。


 いつもならそんな人々の姿を横目に素通りするのだが、今日はちがった。

 日当たりの良いベンチに、少女がひとり座ってスケッチブックに絵を描いていた。

 少女といっても、僕と同じくらいか少しばかり年上だろうか。


 つい足を止めてしまったのは、彼女が線の細い儚げな美人だったから、というわけではない。

 整った見た目にそぐわない、鬼気迫る顔で一心不乱といった様子でスケッチブックに鉛筆を走らせていたからだ。


 薄ピンク色のパジャマに白のカーディガンを羽織っているところを見ると、鈴が丘の入院患者なのだろう。

 怪我をしているようではないので、恐らく病気か。

 折れてしまいそうなほっそりとした首筋や、パジャマの袖からのぞく骨ばった手首からも想像ができた。


 風が吹けば倒れてしまいそうな体で、いったい何を必死に描いているのか。


 気になって、足音を消しその美人に近づいてみた。

 すぐ後ろまで来ても、彼女は僕の存在に気づく様子はない。


 ベンチの背面で咲く、白に朱色を一滴垂らしたような淡い色のバラがの匂いがした。

 その濃厚な甘い香りに紛れることなく、反発するように主張しているのは消毒液の匂い。

 母が仕事から帰宅すると必ずまとっている、僕にとっては嗅ぎなれた匂いだ。


 バラよりも消毒液の匂いのほうが落ち着くなと思いながら、彼女の手元をそっとのぞきこむ。


 スケッチブックに描かれていたのは、彼女の真剣な目線の先にあるピンク色の花をつける低木だった。

 濃い緑の肉厚の葉を覆い隠そうとするように、大輪の花をいくつも咲かせている。


 彼女の手はつねに動き、目の前の花を白い紙に写しとっていた。


 不思議だ。

 ただの黒い線の集合体なのに、彼女が描く花からいまにも甘い香りがしそうなほど、瑞々しく咲いて見える。


 触れれば柔らかな花びらの感触がするのではないか。

 本気でそう思うような魅力が彼女の絵にはあった。

 絵が苦手で、妹に何か描いてほしいとねだられて描いては、微妙な顔をされてしまう僕は素直に感心した。


 そのまま見ていると、描き続ける彼女何かぶつぶつ呟いていることに気がつき、そっと耳を近づける。



「これってツツジだよね? ツツジってこんなに豪華な花だったかな……。それにツツジ色ってもっと濃いピンクだし……もしかして別の花? いや、でも時期的にはいまだよね……まあツツジにも濃いピンクのがあれば、オレンジっぽいのもあるし。……でもなあ」



 どうやら花の名前について考えていたらしい。

 こんなに素早く手を動かしながら器用なことだ。不器用で何につけ要領の悪い僕は、描きながら喋る彼女に感心した。



「……アザレア」



 何となく……何となく、彼女に教えてやりたくなりぽつりと答えた。

 ごく小さな声だったのだが、相手はこちらが驚くほど勢いよりく振り返った。


 アーモンド型のくっきりと綺麗な二重の目が、僕をとらえて大きく見開かれる。

 その動きは花びらがゆっくりと開く様子とよく似ていた。目が離せない、神聖な美しさがあった。



「え……なに?」


「その花の名前。アザレアっていうんです」


 僕が彼女の絵を指さして言うと、彼女はまだギクシャクとした動きで頷いた。


「あ、ああ。花の名前ね。そっか。やっぱりツツジじゃないんだ……」


「ツツジの仲間です。西洋ツツジと呼ばれることもあります。あとはサツキやシャクナゲもツツジ属だったかな」


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