第4話 母と子


 財布を家に忘れたので届けてほしい。


 学校帰宅した途端母から電話があったとき、その財布はまさに僕の目の前、電話機の横に置かれていた。

 しっかり者に見られる母だが、こういった忘れ物やうっかりは多い。僕が母の職場に届け物をするのも、これで何度目になるだろう。


 財布を持って母の勤務する総合病院に赴くと、母は職員通用口で待っていた。



「ありがとう虹! 助かった~!」



 看護服を着た母、汐里しおりはまだ勤務前だったようで、肩まである髪を降ろしていた。

 これから母は、明日の朝までこの病院で看護師として働くのだ。

 深夜でも休まずナースコールに対応し、化粧を崩し疲れ切った様子で帰宅するだろう。

 そして束の間の休息のあと、疲れを引きずったまままた病院に出勤し、看護服に袖を通す。


 僕たち家族を養うために、一家の大黒柱である母は病院で戦い続けている。



「これから梓を迎えに行くのよね? 夜はあの子のことお願いね」


「うん。……泣くかな」



 年の離れた妹の梓は四つになるが、いまだにたまに夜泣きをする。


 保育園で嫌なことがあったりすると、泣くことが多い。

 そういう時は母がいないとなかなか泣き止まないので、夜勤で母が不在のときは覚悟を決めて夜に臨まなければならない。


 寝ぼけて泣きわめく梓に殴られたり蹴られたりするのはいいのだ。

 こちらに痛みはないので好きにしてくれて構わない。

 ただ無痛症でも眠気は感じるし、睡眠不足にもなる。

 体はだるくなるし、疲れもしっかり蓄積されるので、明日の授業は睡眠学習になるのはほぼ決定事項だった。



「うーん。最近夜泣きは減ってるけど、どうかしら。悪いけど頼むわね、お兄ちゃん」


「わかってる。僕らのことはいいから、母さんもがんばって」



 息子の淡白な応援に「ありがと」と母は目元のシワを深め微笑む。

 僕の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜるようにして頭を撫でると、母は病院の中に戻っていった。


 乱れた髪を適当に撫でつけ、僕も回れ右をして歩き出す。

 日影になった小道を歩いていくと、わずかに花の香りがした。


 僕は味覚は鈍いが嗅覚は正常だ。

 むしろ欠如している感覚を補うかのように、嗅覚は人より鋭いかもしれない。

 嗅覚もない無痛症患者もいるそうなので、その点においては恵まれていると担当医が以前言っていた。


 母の勤務する鈴が丘記念病院は、予防医療からリハビリテーション、高度先端医療から緩和ケア、更に三次救急医療までと総合的な医療を展開する地域基幹病院だ。

 街の中心部にほど近い場所にある、広大な敷地に建つこの病院に、僕は昔から定期的に通っている。

 こうして母のおつかいで行くだけでなく、無痛病の患者として通院していた。


 無痛症に治療方法はない。怪我をしたときの対処療法のみだ。

 だがその怪我に本人が気づかず生活を続けてしまうことが多々あるので、定期的に全身の健康診断を受けなければならない。


 実際過去に骨折に気づかないまま日常生活を送っていたこともあった。小さい頃は脱臼が多かったらしい。

 だが怪我よりも病気が怖いと母は言う。

 たとえば僕は虫歯になっても歯は痛まないし、盲腸になっても痛みがわからないので普通に学校に行き授業を受けることができてしまう。

 破裂して生体機能を維持できなくなり、初めて異変に気づくだろう。


 手遅れになってからでないと気づけないのが恐ろしいのだと、母は耳にタコができるほど繰り返す。

 だが病気ならむしろ仕方ないのではと僕は思う。

 がんが体の中にできても、ほとんどの人間はなかなか気づけないと聞く。

 それと同じだ。ただ、自分には気づけない病気の数が、人よりかなり多いだけの話ではないだろうか。


 しかしそんな考えを、日々患者の死を目の当たりにしている母に聞かせようとは思わない。

 自分が普通の子どもよりも、多くの苦労をかけてきた自覚はある。

 だからせめて、言いつけは素直に聞き、妹の世話も出来る限り引き受け、母の負担を減らそうと僕なりに努力していた。


 どうも僕は感情の機微に疎いらしいので、役に立てているかは怪しいが。

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