第3話 無痛の心


「何してるんだ!」



 突然の乱入者の声に、僕は誰よりはやく、上級生たちのお遊びの時間が終わったことを悟った。

 同時に、表に出てしまった火傷の痕を隠さなければと思ったのだが、目の前の彼らはまだ僕の腕を離そうとしない。

 困ったな、と僕は空き教室の入り口を窺った。



「あん? 何だ、てめぇ」


 僕の腕を掴んだまま、男が入り口を振り返る。


「おい。まずいぞ。あいつ、二年の甲斐だ」


「甲斐って、父親が警察のお偉いさんだっていう? げぇ。やべぇじゃん」



 三人が慌て出し、ようやく腕が解放された。

 脱がされかけた制服を直そうとしていると「綿谷くん、大丈夫?」ともうひとり乱入者が駆け寄ってきた。

 女子の声というだけで、また相手が誰なのかすぐにわかった。僕に声をかけてくる女子は、そう多くない。



「け、怪我してるの?」


「いや、たぶん大丈夫」



 怪我をしていたとしても、僕自身にはわからない。

 腕の骨が折れていても、僕は平気でその折れた腕を使う。血が流れているのを見てようやく、どこか怪我をしたのかと気づくのだ。



「どこかぶつけてない……?」


「平気だって、犬井さん。僕汚れてるだろうから、触らないほうがいいよ」



 同じクラスの女子、犬井芙美香いぬいふみかとそんなやりとりをしていると、その隙に上級生たちが一斉にドアへと駆けだした。



「おい! 待てよ!」



 制止の声を振り切り、彼らは空き教室を飛び出しバタバタと走り去っていった。

 見事な逃げ足だった。僕だとああはいかない。素直に感心してしまう。



「あいつら……!」


「泰虎。いいよ別に。たいしたことされてないし」



 三人を追いかけていきそうになった乱入者を止めると、切れ長の目に思い切り睨まれた。


 僕の幼なじみのひとり、甲斐泰虎かいやすとら

 泰虎は昔から模範的な優等生だ。小中高と生徒会長を務め、成績優秀で運動神経も良く、生徒からも教師からも一目置かれている。

 高身長で、目鼻立ちがはっきりとした凛々しい顔立ち。外見の良さもさることながら、人当たりが良く公平で誠実な男。友だちが多く、女子からの告白が後を絶たない人気者。およそ欠点の見当たらない完璧な人、と噂されているのを聞いたことがある。理想の男子で、彼氏にしたい男ナンバーワンだと。

 だが幼なじみである僕は、泰虎がとても頑固で、潔癖で、そしてものすごく、時々辟易してしまうほど世話焼きであることを知っていた。



「お前がそんなだから、ああいう奴らがつけあがるんだぞ。どうせろくに抵抗もしなかったんだろ」


「うん」



 おざなりに返事をしながらシャツの裾をズボンにしまい、袖を直そうとしたところで腕をとられた。

 しまった、と思うが見られてしまった以上もうどうしようもない。



「なんだ、これ」



 泰虎の目は、僕のほどけかけた包帯を捉えていた。

 茶色く盛り上がった火傷の痕を、いじめや暴力を許さない正義の男に見られてしまった。



「いまの奴らにやられたのか?」


「えっ。そ、そうなの綿谷くん?」


 犬井さんがギョッとした顔をするので、すぐに首を横に振る。


「ちがうよ」

「じゃあ……あいつか」



 泰虎の目の色が変わる。

 反射で否定してしまったことを後悔した。

 この火傷を作った相手に思い至ってしまったのだろう。それは僕のもうひとりの幼なじみなのだが、泰虎はその相手を心底嫌っているのだ。



「まだあいつと付き合ってるのか。もう関わるなって言っただろ」


「どうして?」


「決まってる。あいつと関わるとろくなことがないからだ」



 断言する泰虎に、僕はそっと目を伏せた。

 もうひとりの幼なじみを悪く言うときの泰虎は、少し苦手だった。



「僕はそうは思ってないけど」


「そんな火傷の痕つけられてか?」


「これは……別に痛くないし」



 ますます理解できないとばかりに頭を振る泰虎に、僕は困って目をそらす。

 この火傷をもうひとりの幼なじみがつけている理由を知ったら、泰虎はどんな顔をするだろうか。


 僕と泰虎の間でおろおろしていた犬井さんが、おもむろにハンカチを差し出してきた。



「あの、これ。良かったら水で冷やして使って?」


「いいよ。痛くないから」


「でも……」


「犬井さん。僕にあまり構わないほうがいいよ。泰虎の幼なじみだからって、僕に親切にしても意味ないし」



 僕の言葉に、犬井さんの頬が赤く染まる。ハンカチを持つ手はプルプルと震えていた。

 泰虎の深いため息が、空き教室に大きく響いた。



「虹。体の痛みがわからないと、心の痛みもわからないのか?」


「……どういう意味?」


「もういい。犬井、行こう」



 泰虎に背中を押され、犬井さんが顔を赤くしたまま歩き出す。

 僕は廊下へと向かうふたりの背中を見つめながら、自分は何かおかしなことを言っただろうかと考えた。


 心の痛みとはなんだろう。

 痛みそのものを知らない僕にとって、その言葉は抽象的を通り越し、雲をつかむようなものだった。


 教室を出る直前、泰虎が振り返り、僕を真っすぐに見つめて言った。



「あいつみたいに、死んだように生きるなよ、虹」



 友の忠告に僕は返事はできなかったが、泰虎ははじめからそんなもの期待していなかったようにさっさと犬井さんと去っていった。

 荒れた空き教室にひとり残された僕は、埃っぽさの中ため息をつく。

 髪をかき上げ、そのまま後頭部に触れてみると、大きなこぶができていた。




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