第2話 無意味な暴力


 腹を殴られ、僕は後ろに軽く吹き飛んだ。


 どれだけの力で殴られようと痛みはないが、衝撃をゼロにはできない。

 むしろ力の加減が難しいので、訪れるだろう衝撃を推測し、踏ん張るという作業は僕にとっては至難の業だ。


 背後に積まれていた机やイスがガラガラと崩れ落ちてくる。

 固い物が頭に当たった感触はしたが、やはり痛みはないので僕は無感動にそれを受け止めた。



「何見てんだよ、てめぇ」


 僕を殴った男が、汚物を見るような目で見下ろしてくる。


「相変わらず何考えてんのかわかんねーツラしやがって」


「何も考えてねんじゃね? いくら殴られても痛くないんだから、ロボットみたいなもんだろ」



 使われていない教室に僕を連れこんだ、上級生の男たちが笑う。

 何がおかしいんだろうなと、三人を見上げながら不思議に思った。


 僕は痛みを知らない。

 比喩的な表現ではなく、生まれてこの方痛みというものを感じたことが一度もなかった。


【無痛症】

 正式名称、先天性無痛無汗症。

 英語ではCongenital Insensitivity to Pain with Anhidrosis、略してCIPA。


 運動麻痺を伴わない全身の無痛を主症状とする疾患のことで、症状には個人差がある。僕の場合は無痛で、ほとんど汗もかかない。例えば怪我をしても気づかないし、虫歯になっても痛みがないのでわからない。盲腸になっても気づかないまま、破裂して死ぬかもしれない。そういう厄介な体質なのだ。


 僕が無痛症であることは、入学当初から学校中に知れ渡っていた。小・中と、僕に怪我をさせないよう学校側が同級生たちに周知してきた結果だ。

 ある程度僕自身が気をつけて生活できるようになったので、高校に進学してからは学校に特別な配慮は求めていない。

 だが同じ小・中学校からきている生徒は多いので、自然と噂で広まった形だ。


 痛みを知っている人たちは、痛みがないという未知の感覚が理解できないと同時に、とても気になるのだろう。

 本当に痛みを感じないのか、と試してくる人間は後を絶たなかった。僕が抵抗しないからか、試す行為がエスカレートしていく人間も何人かいた。

 そのうちの三人が、目の前にいる上級生たちである。


 こうして一年近く、僕への暴行を飽きずに続けているのはなぜだろう。

 まるでどうにかして痛めつけようとしているかのようで、それこそ僕には理解できない。

 何をしたところでムダなのに。たとえ腕を引きちぎられたとしても、僕は痛みで声を上げることは絶対にないだろう。もしかしたら使える腕が一本なくなったな、くらいにしか思わないかもしれない。

 僕には、その時自分がどんな感情を持つのかわからなかった。



「……あ? お前、なに腕触ってんだよ」



 三人のうちのひとりが、僕を見ていぶかしげに眉を寄せる。

 言われてはじめて、自分が右腕に触れていたことに気がついた。

 腕がなくなる想像をしていたからだろうが、そんなことは知らない上級生たちは顔を見合わせにたりと笑った。



「なんだよ。腕痛めたのか」


「ちゃんと痛ぇんじゃん。痛いなら痛いって言えよ。わかんねぇだろ」


「おら。どこが痛いんだ?」



 右腕をつかまれ、力任せに引き上げられる。

 これをやられると肩を脱臼し易い。仕方なく立つと、腕をつかまれたまま脇腹を蹴られた。

 痛くはないが、一瞬息が詰まる。息が詰まると、ちょっと苦しい。苦しいと痛いは似ているのだろうか。



「痛いんなら声くらいあげろよ」


「つーか、無痛症ってやっぱ嘘だったんだ?」


「でもこいつ、殴っても顔色ひとつ変えなかったじゃん」


「ずっと我慢してたんじゃね? アホくさー」



 笑いながら、今度は膝を蹴ってくる。

 やはり痛みはないが、一瞬膝から力が抜けた。


 僕が体勢を崩しても、上級生は腕を離そうとしなかった。

 いまの自分はさながらボクシングジムにぶらさがるサンドバッグだな、などと考えていると「なんだこれ?」と腕をつかんでいた上級生が僕のシャツの袖をまくり上げた。



「包帯巻いてるぞ、こいつ」


「なんだ、俺らにやられる前から怪我してんのかよ」


「って、うわ! なんだこの腕!」



 汚ぇ!と叫び、上級生は僕を突き飛ばして距離をとった。

 ほどけかけた包帯の下から、いくつかの丸い火傷が顔をのぞかせている。



「うえっ。きもっち悪ぃ」


「つか、あれ根性焼きじゃね?」


「おいおい。まさか自分でやったのかよ」


「俺ら以外にもこいつに手ぇ出してるやついるんだろ? そいつじゃねえの?」



 問いかけられているわけではないようなので、僕は黙っている。

 彼らは僕に何か答えを求めたことはない。「痛いか?」と聞かれはするが「痛くない」と言っても彼らは満足しないのだから、ただ返事をすればいいという話ではないのだろう。

 上級生たちが満足する答えは、きっと自分には一生出せないことを僕は知っていた。



「だったら俺らがやってもよくない?」



 ひとりが制服のズボンから煙草の箱を取り出しながら言った。他のふたりは顔を見合わせ「マジで?」と少し不安そうに呟く。

 殴ったり蹴ったりは笑ってするのに、火傷を負わせることには抵抗があるらしい。

 痛くないことに変わりはないのに、と僕の中で謎は深まるばかりだ。普通の人の感覚はよくわからない。



「すでに誰かがつけてんだから、俺らがあとから増やしたところで同じじゃん?」


「まあ……それもそうか」


「先にやった奴のせいにしちゃえばいいもんな」



 火傷が公になった時の対処を話し合うと、三人は新しい遊びを見つけた顔で僕を見た。



「お前のその火傷って、右だけ?」


「他にもやられてんじゃねーの? 背中とか、服で見えないとこ」


「とりあえず全部脱げよ」


「学校で全裸とかやべー。ついでに動画撮ろうぜ」



 ゲラゲラ笑う三人の腕が一斉に伸びてくる。

 火傷は別に構わないが、全裸はさすがに嫌だなと考えた時、空き教室の扉が勢いよく開かれた。

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