第9話 泣かない灰皿
「虹。灰皿」
黄昏の中に小さな火が揺れるのを見て、僕はパーカーの袖をまくり右腕を差し出した。
「左は?」
「この前やったよ」
言いながらも、左の袖もまくって見せる。
その手首には治りきらない丸い火傷がひとつ残っていた。他にも治りきった痕が四つ。右には六つある。
黒く焦げた丸と、白く浮き出た丸が混在する手首は、お世辞にもきれいとは言い難い。でもそれを気にする人間は、いまこの防波堤には立っていなかった。
「じゃあ、今日は右な」
僕の右手をとり「痛かったら言えよ」などとつまらないことを言う司狼に「痛かったらね」と返すと笑われた。
お互いに、そんなことはありえないと思っているから言える冗談だ。
「いくぞ」
「どうぞ」
チリチリと燃える煙草の火が、僕の右手首に向かってゆっくりと降りてくる。
潮風に吹かれて点滅するようにその明るさを変えていた火は、やがてジッと僕の皮膚を焼き、煙を立てて消えていった。
その間、僕らはずっと無言だった。
寄せては返す波の音の中、これまで幾度となく繰り返してきた儀式めいたこの行為を今日も終えた。
「はい、おしまい」
司狼はピンと吸い殻をはじいて海に捨てた。僕の皮膚を焼いた火は、海の水に完全に消えていった。
残ったのは腕にできた新しい丸い火傷と、微かな硫黄臭さだけ。それもすぐに潮の匂いに押し流されていった。
司狼は火傷の増えた、僕のなまっちろい腕をじっと見下ろす。
「痛いか?」
「いや……全然」
「こら、掻くなよ。傷がひどくなるだろ」
煙草の火を押し付けた張本人が、真面目な顔でそんなことを言う。
ふざけた男だと思いながら、まくった袖を元に戻し手首を隠す。潮風が火傷に当たると、なんとなくくすぐったいような気がしたのだ。
沁みる、というやつなのかと一瞬考えた。僕は痛みを知らないので、気のせいだろうが。
小さい頃は怪我や骨折や流血が日常茶飯事だったという僕が、こうして十七になるまで五体満足で生きてきたのは、ひとえに医療の心得があった母の献身のおかげだ。
それなのに、親不孝者の息子はそれなりに大きくなったいまも、こうして自分の体に傷をこしらえている。母が知ったら泣くだろう。いや、それより殴られるのが先か。
僕自身はちっとも痛くないので心配する必要はないと思うのだが、そういうことではないのだと、以前母に怒られた。
体を大事にしてほしいと母は言う。何度も言う。怪我をするな、周りに注意しろ、自分の体にはもっと注意しろ。
そういうことは言われればわかるし、一応気をつけてもいる。
でも僕には体を大事にするということが、もっと根本的な部分で理解できずにいた。
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