第10話 不確かな約束


「虹。その火傷が治るまで、手首切んじゃねぇぞ。火傷の治りが悪くなるからな」



 二本目の煙草を取り出して、口にくわえながら司狼が言う。

 それはまるで出来の悪い子どもに言い聞かせるような口調だった。



「わかった」


「いい子だ。ちゃあんと言いつけ守れたら、またバイクに乗せてやるよ」



 煙草に火をつけ、みるみるうちに暗くなっていく空に煙を吐き出す司狼の姿は、まるで映画のワンシーンのように様になっていた。

 見た目も中身も人並み外れている司狼は、よく他人に憧れを向けられているが、それ以上に恐れられてもいた。


 司狼は感情の起伏があまりない。

 誰かと話しているとき、バイクに乗っているとき、司狼はいつも笑っているが、人を殴るときも彼は笑っている。怒りという感情がないようで、問題を起こすときは大抵「やられたからやり返した」というのが理由だ。

 そういう彼を理解できず、畏怖する者は多い。

 家族でさえも司狼を受け入れられなかったのだから、他人には相当困難なのかもしれない。


 でも僕にとって司狼は、憧れの対象でも恐怖の対象でもなかった。

 ただ、司狼の隣りは誰のそばよりも落ち着ける。それは恐らく、僕と司狼が少し似ているからそう感じるのだろう。


 この風変わりな幼なじみは、笑いながら友人を半殺しにすることもあるし、趣味かのように体のあちこちにピアスの穴を開けたりする。

 他者の痛みにも自分の痛みにも頓着しない。そういうところが、痛みというものを知らない自分と似ていると思うのだ。

 僕が自分の体に血が通っていることを確認したくて、手首を切ることを繰り返していた頃。一度両手首をいっぺんに切って、出血が止まらなくなり救急車に乗ったことがあった。

 家族や教師は悲しんだり怒ったりしていた。泰虎も命を粗末にするなと僕の胸倉を掴んで泣きながら怒っていた。

 そんな中、司狼だけが「バカな奴だなあ」と、心底おかしそうに言ったのだ。

 先に聞き手の手首を切ったら、左を切るとき力が入らないだろう、と。

 確かにその通りなのだが、僕は別に死にたかったわけではない。それを言うと「なおさらバカな奴」と笑われた。


 それからだ。司狼が僕の手首の傷を上書きするように、煙草の火を押し付けるようになったのは。

 それについて思うところは特にないが、やると司狼が満足そうな顔をするので好きにさせている。僕も火傷が治っていく様子を見ると、なぜか心が落ち着いた。



「今度は朝に連れてきてやるよ」


 暗い海を向きながら、司狼が言う。


「朝に海? 司狼、朝弱いのに」


「だからなかなか見れねぇんだよ。なんで俺はこんなに朝に弱ぇんだろなあ」



 それは司狼が不規則でだらしない生活を送っているからだ。本人もそれをわかっているからへらへらしている。


 度重なる問題行動で、マンションと十年は生活に困らない資金を渡され家を追い出された司狼は、大学に籍を置きながらも何を学ぶでもなく気ままに暮らしている。

 遊び、酒を飲み、女を連れこみ、自堕落な生活を送りながら、悠然と彼らしく。

 たまにマンションに怪しげな男たちが出入りしているようだが、司狼自身に変化は見られなかった。


 環境に適応しない男。どこにいても、司狼は司狼にしかなれない。悩んだり、迷ったり、道をまちがえることもない。

 それは僕も同じだった。

 まちがいがあるとするならば、それは生まれてきたこと自体だろう。



「……そんなに朝の海が好きなんだ」


「つーか、日の出な。すげえぞぉ。海の上をピカーッと閃光が走ってな、眩しいのなんの。一瞬全身焼き尽くされるかと思うくらいだ」


「へえ。夕日と似たようなものなんじゃないの?」


「ばーか。全然ちげぇわ。朝日は東からのぼって、夕日は西に沈むんだぞ。パワーがちがうだろ」



 地球の自転については小学校で履修済みだが、太陽のパワーというのがわからない。光の強さのことだろうか。それとも熱のことを言っているのだろうか。独特な感性を持つ男なので、たまに理解しにくい表現をする。

 もしかしたら、あえて僕が悩むような言い方をしているのかもしれない。年上の幼なじみは、そうやって僕をからかうことを楽しんでいる節がある。



「そんで、生き返ったような気になるんだわ」


「生き返る」


「そう。で、ああ、俺って生きてたんだなーって思うわけ」



 それを聞いて、改めて似ているなと思った。

 自分が生きているのか、よくわからなくなるときがある。生きるということ自体がわからないからだ。わからないまま生きているからだ。


 本当は死んでいるんじゃないだろうか。

 そう思うのはよくあることで、そういうときに僕は自分の手首を切って血が流れる様子を見ていた。

 いまは司狼がくれた煙草の痕の治っていく様子を見るのを、手首を切る代わりにしている。



「だから虹。今度連れてきてやるよ。朝日を見に。お前も見てみたいだろ?」


「……うん」


「あれを見て、お前は何を思うんだろうなあ」



 どこか楽しげに呟き、司狼が煙を吐く。潮風に巻かれ、煙は一瞬で飛ばされていった。微かに甘い司狼の煙草の匂いも、すぐに潮の香りに飲みこまれる。


 果たして、朝にめっぽう弱い幼なじみと日の出を見るときは本当に来るだろうか。


 そっと目を閉じると、波の音が大きく聴こえる。

 まぶたの裏に一瞬、閃光が走った気がした。


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