第11話 返せなかったもの


 鈴が丘記念病院には、定期健診以外に歯科検診にも半年に一度訪れる。

 木から落ちた翌々日にその予約をしていたので、僕は羽子さんに借りたハンカチを通学鞄に忍ばせてきた。

 汚れていたのですぐには気づかなかったが、血を洗い流すとハンカチには赤い花の刺繍がしてあった。ツツジに似た花だ。

 羽子さんはツツジが好きなのだろうか。だからツツジだと思って、アザレアを描いていたのかもしれない。


 歯科検診では問題は見つからず、歯をクリーニングされて終わった。鏡をのぞけば真珠のように磨かれた歯が、僕のぼんやりした顔の中で浮いて見えた。

 前回で上の歯の親知らずを抜きおわったので、今回は下を抜くのかと思ったのだが、どうやら僕には下に親知らずは元々ないらしい。

 いまは一本もない子も多いと言われ、半分の自分はこんなところも中途半端だなと思いながら診療室を後にした。


 母の徹底的な管理と指導により、僕は生まれてこのかた虫歯になったことがない。

 力を入れて磨き過ぎ、歯茎を傷つけ血だらけになったことは何度もあるが。

 歯をすべて自力で抜いてしまう無痛症の子どももいるらしいので、つくづく僕は母に生かされてきたのだなと思う。



「あれ? 虹くんじゃない」



 はじめて最上階にある病棟に足を踏み入れると、ナースステーションにいた吉村さんが目ざとく見つけ声をかけてきた。

 静寂が耳に痛いほどのフロアで、吉村さんの元気な声が大きく響く。

 元々声がそれほど大きくない僕は、増々声を潜めて喋った。



「どうも。母さんに、吉村さんはいま緩和ケアにいるって聞いて」


「えー? なになに? 私になにか用?」


「いや。吉村さんにじゃなくて……」


 吉村さんはすぐにピンときたような顔をした。


「ああ、もしかして羽子ちゃん? そういえば、虹くんはあのあと何もなかった?」


 少し恐い顔をした吉村さんに「はい」とうなずいて返す。

 肩に大きな青痣ができたが、それだけだ。痛みを感じない僕には不便もない。



「今日は、彼女に借りたハンカチを返しに来たんです」


「ハンカチ? そうなの。今日はあまり体調が良くないみたいなんだけど……」


 吉村さんは一度病室のある廊下の奥を見てから、にっこりと笑った。


「良かったら私から返しておこうか?」


「え? あ……ええと」



 迷うことはなかったはずだ。

 吉村さんから返してもらっても何の問題もない。むしろそのほうが羽子さんにとってもいいだろう。そうは思ったが、なぜか僕は一瞬迷った。

 その迷っている内に、ナースステーションにコールが鳴り響く。

 すぐさま対応した吉村さんは、受話器を置いてバタバタと準備をしながら「ごめん、虹くん!」と謝ってきた。



「悪いんだけど、ハンカチはそこのカウンターに置いておいてくれる? 後で羽子ちゃんに返しておくから」


「はあ。でも……」


「ごめんねー!」



 謝る必要もないのに再度謝ると、吉村さんは医療器具の載ったカートを押しながらナースステーションを出ていった。

 吉村さんの慌ただしい足音が遠ざかり、無音が戻ってくる。

 僕はハンカチを見て、それから廊下の奥を見て、少し迷ってから歩き出した。病棟の奥へと向かって。


 吉村さんの配属部署は、緩和ケア病棟だった。

 エレベーターを出てすぐ目の前に、自販機と家族室、トイレがある。右に曲がると立ち入り禁止の札がついたドアがあり、その奥に診察室。そこから左に曲がってすぐナースステーションや広いラウンジがあった。病室は更にその奥だ。

 出歩いている人がひとりも見当たらない上に、無音と言ってもいいほど静かなので、本当にここに人が入院しているのだろうかと疑いたくなる。

 だが826号室の前に飾られていた『椿坂羽子』というネームプレートを見つけ、確かに彼女がここに入院しているのだと実感した。


 つばきざか、と読むのだろうか。

 名前から花の香りがしそうだなと思いながらノックしようとした手が止まる。ドアが少し開いていることに気が付いたのだ。


 眠っていたら悪いな、と中の様子をそっと伺うと、彼女は窓際に立っていた。

 彼女の羽織った白いカーディガンが、一瞬天使の羽のように見えたとき、天使ががくりと崩れ落ちた。

 驚いてつい、僕は部屋の中に入ってしまった。同時にすんと無意識に鼻が動く。部屋には病院独特の薬剤の匂いの他に、嗅ぎなれない香りが満ちていた。



「大丈夫ですか」



 突然現れた僕に、羽子さんは動揺することなく、ベッドの脇にもたれながら見上げてきた。驚く余裕もない、と言ったほうが正しいかもしれない。

 羽子さんの整った顔には汗が滲み、顔色は真っ白だった。息が荒く、細い肩が何度も大きく上下している。



「……誰?」


「あ。すみません。一昨日、木から落ちてハンカチを借りた者です」


「木から……ああ」



 無痛症の、と呟くと、羽子さんは力を振り絞るようにして立ち上がった。

 そして落ちた筆をとり、再び窓に向かって立つ。彼女の前にはイーゼルがあった。

 キャンバスには黄色のチューリップが咲き乱れている。


 ああ、そうか。これは油の匂いだ。

 彼女が手にしている木製のパレットや筆を見て、嗅ぎなれない匂いの正体を理解する。


 羽子さんは筆を動かし始めた。だが筆を持つ手は小刻みに震えている。手どころか、全身が震えているようだ。

 そういえば、今日は体調が悪いようだと吉村さんが言っていた。無理をして絵を描いているのかもしれない。



「あの……休んだほうがいいんじゃ」


「……どうして?」


 手を止めないまま、羽子さんが返す。その声は硬かった。


「体調が悪いんですよね?」


「だから?」


「だから、休んだほうが」


「休んだところで、私の病気は治らないのに?」


 羽子さんの細すぎる背中は、僕の言葉を強く拒絶していた。


「体調の優れている日なんてないの。昨日よりはまだマシっていう日があるくらい。私の体は、いつだって痛みを訴えてる」



 羽子さんの言葉に、ここが緩和ケア病棟だということを思い出した。

 体調の優れている日はない。病気は治らない。つまり彼女は、この静かな病棟で死を待つ人なのだ。



「でも、無理をすると余計に痛いものなんじゃ―—」



 言っている途中で、トンと胸に軽い衝撃があった。

 突き飛ばされたことに気づいたのは、羽子さんの細い腕が僕に向かって伸ばされていたからだ。あまりに力が弱すぎて、すぐにはわからなかった。



「痛みがわからないくせに、知ったようなこと言わないで!」



 振り返った羽子さんは、怖ろしい表情で僕を睨んでいた。

 憎くて憎くて、たまらないという顔だった。

 気味が悪い、気持ちが悪い、理解できない。そんな表情で見られることには慣れていたが、ここまで人に憎悪を向けられたことがなかった僕は、ただ戸惑った。



「無痛症の君に私の何がわかるっていうの⁉ どれだけ私が必死に痛みに耐えてるか、それがどれだけつらいことか、何も知らないくせに!」


「……ごめんなさい」


「君は考えたことなんてないでしょ? 死ぬ前に、最後に見たい景色は何なのかなんて。それが見つからない私の焦りなんて、わからないでしょ!」



 出ていって、と叫ばれ、僕は従うしかなかった。

 羽子さんは怒っていた。多分、怒っていた。それなのになぜか、泣いているようにも見えた。


 気づけば病院を後にしていた僕は、家に帰ってからようやく、ハンカチを握りしめたままだったことに気が付いたのだった。



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