第12話 おまじないの行方


 保育園に妹の梓を迎えに行き、家に帰り母の用意していた食事を温めふたりで食べた。

 母の負担を減らそうと、母監督のもと料理に挑戦したことはあるが、失敗を何度か繰り返したところであきらめた。

 味覚が鈍いのが致命的だった。

 砂糖と塩を間違えていてもほぼ気づけないし、味を調整するということも不可能に近い。

 不味いものが出来ても、僕自身は食べることに問題ないが、梓はちがう。

 しょっぱいを通り越し辛くなった僕の手料理を、梓が無理をして完食したことがあった。

 食べ終わったあと「美味しかった」と言いながらぽろぽろ泣く妹を見て、料理はしないと誓った僕だ。


 梓も小さいながら、仕事が大変な母と、人間として色々欠けている兄を気づかっている。

 優しい子なのだ。僕とちがい、妹が痛みのわかる子で良かったと、心から思う。



「こーくん。このハンカチ、だれの?」



 風呂上り、テーブルの上に置いていたハンカチを見て、梓が無邪気にそう聞いてきた。

 くりっとした大きな瞳に見上げられ、少し考え「借りたものなんだ」と答えた。

 梓をソファーの前に座らせて、ドライヤーのスイッチを入れる。



「だれからかりたのー?」


「病院で会った人」


「えー? きこえないー!」


「病院で貸してもらったの」



 ドライヤーの音に負けないよう声を張り上げ、梓が笑う。

 何がそんなに楽しいのかわからないが、無邪気に笑う妹を見ると僕の口角も自然と上がっていた。



「梓のおかげで、その人と出会ったんだ」


「アズの? アズなんにもしてないよー?」



 一度ドライヤーを切り、そのハンカチを貸してくれた人が絵を描いていていて、花の名前がわからなくて困っていたと説明した。

 正確にはあの彼女は困っていたわけではないだろうが、そのあたりを四歳児にうまく説明できる気がしなかったのでごまかした。



「よく花の図鑑を読んでくれって言うだろ? そのおかげで僕も花にくわしくなったから、そのハンカチを貸してくれた人に花の名前を教えてあげられたんだよ」


「そうなんだ! こーくん、そのひとにあえてうれしいんだねぇ」



 他意のない妹の言葉に、僕は目を見開いた。


 僕は、彼女に出会えて嬉しいのか……?


 よくわからない。嫌ではなかった。悲しくもなかった。それは嬉しいことになるのだろうか。

 ただ、彼女が貸してくれたハンカチの血をきれいに落せたとき、ほっとしたことだけは確かだ。

 そして今日は彼女に睨まれ、拒絶され、戸惑いもした。憩いの庭で会ったときとは雰囲気が違いすぎて、それも少し気になった。



「なあ、梓。梓はもし明日死んじゃうとしたら、最後に何が見たい?」


「え……。アズ、あしたしんじゃうの?」


「いや、死なないけど。もしそうなったらっていう話。見たいものじゃなくても、食べたいものとか行きたい場所とかある?」



 梓は一丁前に腕を組んで考えこむ。

 しばらく待っていると、小さな唇を尖らせながら答えてくれた。



「しんじゃうのはイヤだけどぉ。いきたいのはねぇ、うみかな! アズと、おかあさんとおにいちゃんと、さんにんでいったうみ!」


「海……あ」



 潮と甘い煙草の匂いが一瞬蘇る。

 司狼はあのとき何と言ったのだったか。

 思い出そうとしていると「うみ、またいきたいねぇ」と梓が笑顔で振り返る。その目がふと、僕の手元にいった。



「こーくん。またおけがしたの?」



 ハッと自分のドライヤーを持つ手を見ると、血がにじんでいた。木から落ちたときできた傷が、風呂に入って開いたのか。

 痛みがわからないので、自分の怪我を他人に指摘され気づくことが多い。特に梓はまだ小さいのによく見ている。



「……うん。ちょっとね」


「いたい?」


「全然痛くないよ」


「うそだあ。いたそうだよ」



 梓には僕が無痛症であることは話してあるが、理解しきれてはいないようで、こうして時々痛みの有無を確認してくることがある。

 痛みがわからない、という感覚がわからないらしい。

 僕が痛いという感覚がわからないのと同じだ。

 人は皆、自分が経験していないことは理解しきれないようできているのだろう。



「あのね、いたいときはがまんしなくていいんだよ。ないてもいいの」



 ちょっと大人ぶった言い方が微笑ましい。

 恐らく母か、保育園の先生の言葉を真似ているのだろう。



「兄ちゃんは、痛くないから泣けないんだよ」



 物心ついたときから今日まで、僕には泣いた記憶がなかった。

 母が言うには、赤ん坊の頃は普通の感覚の子と同じように空腹や眠気で泣いていたらしい。だが大きくなるにつれ、涙を流す機会は目に見えて減っていったそうだ。


 感覚がひとつ欠如すると、心も鈍くなるのだろうか。感動して涙を流すということもない。

 梓が生まれたときも、二番目の父が家を出ていったときも、涙は出なかった。

 もちろん喜びや悲しみは感じているのだが、普通の人と比べるとあくまでそれなり、なのかもしれない。



「いたいのになけないの? こーくんかわいそう……」



 四つの幼女に本気で憐れまれてしまった。

 痛くないから泣けないと言ったのだが、この小さなお姉さんの頭の中ではちがう変換がされたようだ。



「いたいのいたいの、とんでいけー!」



 うんと腕を伸ばして僕の頭を撫でたあと、梓は紅葉のような手の平を広げ、天井に向かって痛みを放った。


 ついその痛みの先を目で追うように見てしまう。

 ただ白い天井がそこにあるだけで、痛みなんてものは映りはしないのに。



「こーくん。いたいのなおった?」


「……うん。ありがとう、梓」


「どういたしまして! じゃあ、つづきをおねがいね」



 くるりと前を向き、ドライヤーの続きをうながしてくる。


 子どもらしい一面を見せたかと思えば、これだ。

 どちらが年上かわからないなと苦笑しながら、再びドライヤーで細く柔らかい髪を乾かし始める。


 ズレたままの包帯からのぞく火傷を見て、そういえば、とんでいった痛みは結局どこに行きつくのだろうなと考えた。



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