第33話 見届ける人


「この俺をパシリにできる奴なんて、この世でお前くらいのもんだぞ」


 待ち合わせの病院前に現れた司狼は、あきれ顔でそう言った。


「別にパシリにしたつもりはないんだけど」


「あったりめーだろ。お前にそのつもりがあったら来ねぇっつーの」


「はあ……」



 じゃあ何で来てくれたんだ、と聞こうとしたが先にぺしりと頭を叩かれた。

 さっさと病院に入っていく司狼の背中を見て、まあいいかと後を追う。


 緩和ケア病棟にある羽子さんの病室に向かうと、ちょうど吉村さんが困った顔をしながら部屋から出てくるところだった。



「あら。虹くん、またお見舞い?」


「はい。すみません」


「いやいや、謝ることはないんだけどね」



 吉村さんはちらりと後ろにいる司狼を見てから「虹くんて、けっこう不良?」と小声で聞いてきた。

 派手な見た目の司狼と僕の組み合わせが意外だったのだろう。それに羽子さんを病院から連れ出したことも関係していそうだ。



「あんまり先輩に心配かけちゃダメよ?」


「そうですね……」



 生まれてこの方、母には心配しかけてこなかった気もするが、まったくその通りなのでうなずいておく。

 吉村さんは「よし」と満足そうに笑ってから、羽子さんの病室を見た。



「虹くんに頼みたいことがあるんだけど」


「僕に?」


「羽子ちゃんのこと。いま彼女、部屋で絵を描いてるんだけど、痛みが強いみたいなの。でも薬は追加したくないって言うのね」


「絵が、描けなくなるから……」


「そうなの。気持ちはわかるんだけど、あんまり無理をすると体力もどんどん落ちて、命を縮めることになるからさ。ご家族も心配してるし、虹くんからも少し休むよう勧めてくれない?」



 羽子ちゃん、虹くんの言うことなら聞くかもしれないし。

 吉村さんはそう言って僕の肩を叩くと、ナースステーションに戻っていった。

 奇妙なことを言うな。羽子さんが僕の言うことを聞くなんて、どうして思ったのだろう。言うことを聞いているのは、いつも僕のほうなのに。


 病室を覗くと、イーゼルに立ち向かう戦士のような顔で、羽子さんが絵を描いていた。

 椅子に腰かけているが、痩せこけた身体はいまにも崩れ落ちそうで、ギリギリのところで踏ん張っているのがわかる。

 痛みを堪えているのだろう。羽子さんは獣のように唸りながらも筆を動かしていた。きれいな顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。



「……すげぇな。俺らより死に近いとこにいるくせに、俺らより生きてるって感じだ」



 珍しく、司狼が他人を褒めた。

 事実を口にしただけではない。確かにいま、司狼は羽子さんを褒めた。いや、敬意を表した、と言うべきか。他人を褒めるより、更に珍しいことだ。

 羽子さんを見る司狼の横顔は眩しそうで、どこか羨ましげに見える。



「お前があの子にご執心な理由がわかった気がすんな」



 僕をからかういつもの表情になった司狼に小さく笑い、僕は羽子さんに歩み寄った。出会ったときよりさらに薄く、板のようになってしまった背に触れる。

 羽子さんの体は熱かった。ああ、命を燃やしてるんだなと思った。



「羽子さん」


「……虹?」


「うん。泣かないで」



 シャツの袖で、羽子さんの顔を拭う。

 羽子さんはされるがまま、キャンバスから目を離さない。



「勝手に出るの……痛いから」


「涙が出るくらい痛いんだ」


「あと、悔しくて」



 痛みで腕が震えて上手く描けないのが悔しいのだと、羽子さんは新たな涙を流しながら言った。

 燃えている。羽子さんの、命を燃やす炎が見える。



「そう。……大丈夫だよ。いまは薬が効いてないだけで、効いてきたら痛くないよ」



 返事はない。僕と喋る体力が惜しいのか、全神経をキャンバスに向けることにしたのか。恐らく後者だろう。

 僕は羽子さんの背に置いた手を、ゆっくりと動かした。

 上から下に、下から上に。彼女の疲弊しきった身体をいたわるように。



「痛いの痛いの——」



 飛んでこい。

 飛んでこい。

 ひとつ残らず、全部僕の中に。

 僕の中に、飛んでこい。


 やがて羽子さんの様子が変わった。体の震えが消え、筆の運びにスピードが乗る。痛みをこらえ丸まっていた背は力強く伸び、萎れかけていた花が生き返ったようだった。

 痛みが消えたことにも気づかない様子で、羽子さんは描くことに集中している。

 声をかけるのは止めて、僕はそっと彼女から離れた。



「もういいのか?」


「うん……」



 司狼の脇を通り過ぎ、部屋を出る。

 廊下に両足がつく前に、僕は膝から崩れ落ちた。



「——っと。危ね。倒れるなら倒れるって言えよ、虹」



 僕が堅い床に倒れる前に、腕を掴んだ司狼が無茶なことを言っている。

 ごめん、と返事をしたつもりだったが、声になったかどうか。


 僕は、僕の体を焼き尽くさんとする激しい熱に支配されていた。

 羽子さんからもらった痛みは、前回のそれより勢いを増していた。炎の蛇が体を内側で暴れ狂っている。


 これが、羽子さんの痛み。羽子さんの生。

 僕はいま、確かにここに生きている。


 

「……なぁに笑ってんだよ、虹」



 遠くでそんな、司狼の呟きが聞こえた。


 

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