第34話 ムダに生きるな
朝晩の風がほんの少し冷たくなり、金木犀の明るい黄色がぽつぽつと目立ち始めた。
僕はほぼ毎日、羽子さんの病室に通っている。
羽子さんの痛みを僕に移し、痛みから解放された彼女が生き生きと、いや轟々と命を燃やしながら絵を描き始める姿を見届ける。そうしてあまりの痛みに倒れたところを、司狼に回収してもらうことを繰り返していた。
病室から出た途端倒れる僕を、司狼は毎回文句を言いながら自分のマンションの部屋まで運んでくれる。気まぐれで、時間に縛られることが嫌いな司狼が、ここまで僕に付き合ってくれるのが不思議だった。だが下手なことを言うともう協力してもらえなくなる気がして、僕は幼なじみのちっともらしくない親切を甘受することにした。
母は司狼の部屋に外泊することも増えてきた僕に、本当に何も言わなかった。
妹・梓の迎えは、市内に住む祖父母が代わりにしてくれている。
もう高校生なのだから色々忙しいだろう、と梓の面倒見ることを提案してくれたのは、今年定年退職した祖父だ。幼い頃から感情の起伏があまりない僕を気味悪がっていた人だが、妹のことは可愛がってくれていた。僕は母と一緒によろしくお願いします、と頭を下げた。
僕と梓を分け隔てなく可愛がってくれていた祖母は「虹ちゃんが頭を下げることなんてないのよ」と笑っていた。
今日の放課後もまた、学校を出たその足で病院に向かおうとした僕だが、校門を出たところで世話好きな男が立ちふさがった。
「虹。ちょっと話がある。久しぶりに家来いよ」
「泰虎……。悪いけど、用事があるから」
「梓ちゃんの迎えなら付き合うぞ。一緒に家に暮ればいいだろ」
「梓の迎えは、いましてないんだ」
僕の答えに、泰虎は訝しげに眉を寄せた。
「は? じゃあお前、毎日毎日、急いでどこ行ってんだよ」
「それは……」
病院、と答えようとしかけて無理やり口を閉じた。
正直に答えて、病院までついて来られても困る。今日も病院で司狼が待っているはずだ。この兄弟を引き合わせるのはまずい。大体が口論からの殴り合いになるのは、過去の経験からわかっている。
病院でそんな騒ぎを起こせば出禁にされかねない。すでに一度騒動を起こしているのだから尚更だ。
だがどう答えても、この男はついて来るかもしれない。僕は「それより、話って?」と誤魔化し泰虎の脇を通り過ぎようとした。だが腕を掴まれ止められる。
「バカにすんなよ。こっちは見当ついてるんだ。……お前、あいつと一体何してるんだよ?」
見当がついているというより、断定している響きだった。
僕を睨む泰虎の目は、相変わらず兄を憎んでいるようで、僕はそっと目をそらす。
「別に、何もしてないよ」
「嘘つけ。お前、最近自分の顔、鏡で見たか? そんなやつれて、いまにも倒れそうなくせして何もしてないはねぇだろ」
責める声が、少し司狼に似ていると思った。
確実に泰虎の機嫌を損ねるので口にはしないが。やはり、仲違いをしていても血の繋がった兄弟なのだ。
泰虎に捕まれた腕は、元々筋肉なんて言えるものはさほどついていなかったが、更に細くなったことには自分でも気づいていた。
羽子さんの痛みを肩代わりし始めてから、痛みに気を失ったりのたうち回っている間、まったく食事ができなくなった。時間の経過で痛みが消えても、疲労感がひどく食欲がわかないのだ。
先日浴室の鏡に映った自分の姿が一瞬骸骨に見えて驚いたほどだ。僕の変化に母も気づいているだろうに、約束通り何も言わずにいてくれることが、本当にありがたかった。
だが、何も言わずにはいられない男が約一名、ここにいる。
「あいつの言いなりになって、危ないことしてんじゃないんだろうな」
「……泰虎は、勘ちがいしてる。僕は司狼の言いなりになったことはないよ」
「本気で言ってるのか? じゃあお前は、あいつに好きで付き従ってるって?」
「付き従ってるわけでもないんだけど……」
むしろいま現在、僕のわがままに付き合ってくれているのは司狼のほうだ。そう事実を言ったとしても、恐らく泰虎は信じないだろう。
「そりゃあ、司狼はたまに……いや、大体……いつも? 強引だけど。僕は司狼に命令されてるわけでも、脅されてるわけでもないよ」
「何で嘘つくんだ。お前、あいつに殴られたり、体に痕残るようなことされてるんだろ?」
怒りを堪えたような泰虎の言葉に、そういえば前に腕の火傷を見られていたことを思い出す。
あれは失敗だったな、と今更ながら自分のうかつさを反省した。
「まあ、時々は。でも痛くないし」
「お前が痛みを感じないからって何をしてもいいってわけじゃない!」
正論だなあ、と僕は幼なじみの顔をまじまじと見つめた。
泰虎の言葉はいつも、空手の正拳突きみたいだ。真っすぐに放たれる威力はすさまじい。
痛い、という感覚を知った僕は、なんとなくだが、泰虎の言葉に殴られた人は痛いだろうなと思った。
「そうだね。知らない先輩とかに、どうせ痛くないんだろって殴られるのは、ちょっと嫌だと思う。でも、司狼はいいんだ」
「何でだよ。誰だろうが暴力はダメだろうが」
「そうなんだろうけど……でも、司狼はいいんだ。司狼にされるのは、別に嫌じゃない」
「だから、何でだよ!? あいつを庇う意味がわからない!」
庇っているわけではない、と思いながら、泰虎の問いの答えを考える。
他の人に殴られるのは、痛くはないが好きではない。人間扱いされていないのがストレートに伝わってくるし、気分が良いものではない。面倒だから逃げないだけだ。
でも、司狼は別だ。司狼に殴られても同じく痛くはないが、嫌ではない。好き、というのともまた違うのだが。
なぜだろう。理由を考えるが、よくわからない。
司狼が僕に悪意を抱いているわけではないからだろうか。かと言って僕を慮っている、というわけでもない。
「うーん……僕にもわからない」
「はあ? 何だよ、それ」
「強いて言うなら——」
ふたりで立った、夜の波打ち際を思い出す。
「似てるから、かな」
「誰と誰が」
「僕と司狼が」
答えた瞬間「全然似てねぇよ!」と叫ばれた。
びりびりと鼓膜が震えた。近くを歩いていた人たちが、驚いた顔で僕らを見てから、そそくさと去っていく。
「お前とあいつは似てない! 全然、これっぽっちもだ!」
「そうかな。そんなことないと思うけど……」
「いいか、虹。何度も言ってるけど、あいつみたいになるな」
泰虎は僕の肩をつかみ、手のかかる弟に言い聞かせるように、一句一句区切って言った。
「あんな風に、死んだみたいに生きるな。お前は普通の高校生だろ。勉強して遊んで、また勉強して、未来に向かって生きるのが仕事だろ。あいつみたいにムダに生きるな」
僕は泰虎の両手を振り払った。
「ムダじゃない」
「虹……?」
「ムダな生なんてないんだよ、泰虎」
ムダに見えても、そのすべてが道であり、いまとこの先に続いていく。それは死を睨みつけていても、死に魅入られていても変わらない。
羽子さんはいま崖のような険しい急斜面の道を上っている途中で、天辺にはきっと美しい花が咲いているのだろう。司狼の道はやたらと曲がりくねっていそうだ。石ロコが多くて、けれど司狼はものともせず全部蹴飛ばし悠々と歩いているのだろう。
僕の道は、どうだろうか。
たぶん、歩いている本人にはその道の姿が、わからないものなんだろうなと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます