第17話 死の伝染
夜、キッチンで洗い終わった食器を拭いていると、梓を寝かしつけに行っていた母が寝室から戻ってきた。
「虹。ちょっといい?」
言いながら、ダイニングテーブルに着く母。
声のトーンでこれは真面目な話だなと思い、僕は作業を途中で切り上げ、母の向かいに座った。
「あんた、うちの緩和ケア病棟に通ってるんだって?」
その話か、と素直にうなずく。
通っている、というほどの回数ではないと思うが、そう日を置かず訪れたのだから、そうかけ離れた表現でもない。
吉村さんから聞いたのだろう。やましいことはないのだが、今後やましいことをする可能性があるので、若干気まずく感じた。
「緩和ケアにいる患者さんと、知り合いなの?」
「知り合いっていうか、この間母さんに財布を届けに行った帰り、憩いの庭で会ったんだ。その時にハンカチを借りたから、返そうと思って」
「借りたものを返しに行っただけ? 吉村はあんたとその子は友だちだって言ってたけど」
「友だち……? そういうんじゃないと思うけど。また行く約束はした、かな」
どこか他人事のように話す息子に、母は短くため息をつく。
化粧を落とした顔には疲れの色が定着している。
看護師という仕事は僕が想像するよりずっとハードなのだろう。それでも母から仕事に関する愚痴は、一度も聞いたことがなかった。
おまけに息子は厄介な病を患っているというのに、それに付随するだろう苦労や悩みを母は一切悟らせない。そういうところを尊敬しているし、申し訳ないなと思う。
「虹。何度もお見舞いに行くってことは、友だちなんじゃないの?」
「……どうかな。お見舞いっていうつもりでもなかったし」
今日はハンカチを届けに行っただけ。
次は約束をしたから行くだけ。
僕としてはただ、彼女に会いに行こうとしただけなのだが、彼女を患者として見ている母からすると、それは見舞いのうちに入るのだろう。
そういえば彼女は余命三ヶ月の末期癌患者だっけ、と母の言葉でようやく思い出したくらい、僕は椿坂羽子という少女を病人として見てはいなかった。
いや、わかってはいるのだが、ついつい忘れてしまうのだ。あまりにも彼女が、僕よりよっぽど力強い目をしているから。
「そう……。あんたに友だちなんて、おかしいと思ったのよね」
吉井のやつ、と呟き髪をかき上げる母。
何がおかしいのだろうと僕は首を傾げる。
「だってあんた、友だちっていままでいたことある?」
母親の言葉として考えると辛辣かもしれないが、僕は特段傷ついたりはしなかった。
実際、過去を振り返っても自分の中にそういった枠の知り合いがいないのだ。
「幼なじみとか、クラスメイトとか、そういう言い方はするけど、友だちってあんたの口から聞いたことがないのよね。一緒に学校から帰ってる子がいたから、お友だち?って聞いたら、隣りのクラスの子、とか答えるし。泰虎くんだって、あんたにとっては友だちじゃないんでしょ」
「……変かな」
「さあ、どうかしらね。でもまあ、あんたがそうだとは思ってなくても、あんたのことを友だちだと思っている子はいるかもしれないわね」
苦笑を浮かべる母に、僕はやはり首を傾げるだけだ。
僕のような奴を友だちだと思うだろう人間が、ひとりも思いつかない。
それくらい、他者との関係が希薄である自覚は一応あった。
「まあいいわ。約束しちゃったんなら仕方ないけど、その子とは次会うので最後にしなさいね」
「どうして……?」
「緩和ケアにいる患者さんに、興味本位で近づくのは褒められたことじゃないの」
興味本位と言われ、僕は羽子さんに興味を持っているのだろうかと自問する。
よく、わからない。
何につけ興味の薄い虹は、好奇心や執着とは縁遠い生活を送ってきた。
彼女が家族や司狼や泰虎とはちがう、何か特別な存在だとはいまのところ思っていない。
ただ、約束をしたから行く。
海へ連れていくことになってしまったから行く。
それだけのはずだが、母の目にはちがうように映っているのだろうか。
「いい? その子には深入りしないこと」
「元々深入りするつもりはないんだけど……」
「虹。あんたが引きずられてっちゃいそうで、怖いのよ」
お願い、と言った母の不安げな顔に僕がうなずき、その話は終わった。
引きずられてくって、どこに?
聞いてみたかったが、口にすることはできなかった。
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