第19話 スーツケース

 迷いを内包したまま、僕の意識は羽子さんを海に連れて行く方向に舵を切り始めていた。少し前までは断ったほうがいいなと思っていたのに。いや、それはいまも思っているのだが。

 分岐点は、おじいちゃん先生に会ったことだ。彼女を頼まれたから、手当をする役目を言い渡されたから、なんとなくそうしなければいけないような気になっている——ような気がする。

 僕はあの医者に誘導されたのだろうか。でも、仮にも医者が、患者の脱走を促すようなことをするだろうか。

 わからない。わからないままの僕を乗せ、船はゆっくりと海に向かって進んでいる。僕はいつだって流されるままだ。



「泰虎。ちょっといい?」



 昼休み、昼食の準備をしている泰虎に声をかけると、妙にうれしそうな顔をされた。反射で「やっぱりいい」と言いそうにるが、そういうわけにもいかないので思いとどまる。



「どうした虹。お前から話しかけてくるの、珍しいな。一緒にメシ食うか?」



 泰虎のその言葉に、泰虎の周りにいた男子たちがギョッとした顔をする。

 それはそうだろう。これまで挨拶すらまともに交わしたことのない、クラスどころか学校全体で浮いている同級生と、突然一緒に食事だなんて、歓迎する奴は泰虎くらいだ。

 微妙な表情を浮かべる彼らを横目に、僕は軽く首を振った。



「やめておく。それより、聞きたいことがあるんだけど」


「何だよ。何でも聞けよ」


「泰虎、大きいスーツケースって持ってる?」


「スーツケース? どっか旅行するのか」


「まあ、そんな感じ」


「ふうん。大きいってどのくらいだ?」



 どのくらい。僕は想像しながら、手でスーツケースの形を何もない宙に描いてみる。現存するスーツケースの大きさは、最大どのくらいなのだろう。



「大きければ大きいほどいいけど……とりあえず、人がひとり入れるくらいかな」



 僕の答えに、泰虎はあからさまに「また変なことを言い出したな」という顔をする。そして周りの男子たちはさらにギョッとしたように僕から離れる仕草をした。



「例え方が物騒なんだよ。大きいスーツケースね……。うち、旅行しないんだよな。皆忙しくて予定合わないし。出張は多いから、一人用サイズのスーツケースはそれぞれ持ってるけど。あれじゃ人ひとりは入らないだろうな」


「そう」


「他の奴らにも聞いてやるよ。いつまでに必要なんだ?」


「いや、いいよ」


「何でだよ。使うんだろ?」


「いいんだ。ないならないで、別の方法を考え——」


「う、うちにあるよ!」



 不意に背中で声がして、振り返る。そこには少し居心地悪そうにしながらも、こちらを見ている犬井さんがいた。

 おどおどした目を向けてくる犬井さんは、明らかに僕を恐がっている。それでも僕に話しかけてくるのは、彼女が泰虎を特別に思っているからだろう。

 何かと声をかけてきては、泰虎についての話題を振ってこられるのだから、いくら他人の機微に疎い僕にもわかる。



「うちに、大きいスーツケースあるけど……使う?」



 このクラスでまともに僕に声をかけてくるのは、幼なじみである泰虎と犬井さんくらいだ。泰虎は何をしでかすかわからない僕の世話を、一種の義務のように焼いているだけで、僕が彼の親友だからなんてことはない。そのあたり、犬井さんは勘ちがいしているのだろう。

 だから「僕に親切にしても意味はない」と先日言ったのだが、彼女にも泰虎にも僕の真意はうまく伝わらなかったようだった。

 彼女の親切を感じるたび、少し申し訳なく思っているのだけれど、もしかしたら僕のそういった気持ちも彼らにとっては無神経となるのかもしれない。

 

 難しいなと思う。他人の気持ちはわからないとよく聞く。でも僕からすると皆、当たり前のように他人の気持ちを慮っているように見える。

 痛みを知っていれば、わかるのだろうか。だとしたら、痛みを知らない僕には、一生わからないままなのだろうか。



「あの……昔、海外旅行で一度使ったっきりで、ずっと物置に閉まっててね。かなり古いけど、たぶん使えると思うの。一応帰って確認してみるけど、大丈夫じゃないかな。あっ。でも、もしかしたら汚れてたり臭うかもしれないから、ダメだったら申し訳ないんだけどね。できるだけきれいにしてみるし――」



 犬井さんは早口で説明なのか言い訳なのかわからないことをしゃべる。

 口を挟む隙がなく、ぼんやりと聞いていると頭の横をパチンと指で弾かれた。



「虹。人の親切は、素直に受け取るもんだぞ」



 僕の頭を弾いた指を突きつけながら、泰虎が言う。

 泰虎がそう言うのなら、そういうものだのだろう。



「迷惑じゃ、ない?」


「ぜ、全然! 全然迷惑なんかじゃないよ!」


「じゃあ、お願します」



 ぺこりと頭を下げる。

 犬井さんは大げさなくらい嬉しそうな顔をして、泰虎は満足げに腕を組みうなずいた。

 なんとなく、ふたりといると、少しだけ自分が普通の人間になったように思えてくる。それはふたりが僕を、普通の人間にしようとしているからなのかもしれない。


 普通の人は、親切を素直に受け取る。

 普通じゃない僕は今日、それを知った。


 知ったところで何かが変わるとは思えなかったけれど、ふたりが望むのなら僕はわかったふりをしてもいいと思う。

 泰虎と犬井さんの笑顔を見ながら、有名な童話を思い出した。以前梓に読み聞かせた、嘘をつくと鼻が伸びる人形の話だ。あの人形は最後、どうなったのだったか。

 嘘をつくことすらうまくできない僕よりも、人形のほうがよほど人間らしいなと思った。

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