第20話 生きる家族
今日は、緩和ケア病棟のあの白い部屋の扉はぴっちりと閉じられていた。立ち入り禁止の札が、若干傾きながらぶら下がっている。
それを横目に羽子さんの病室を目指し廊下を進むと、奥からガタンと何かが倒れたような大きな音が響いてきた。
もしかして、彼女に何か?
少し焦って、病室のドアに手をかけたとき、中から僕よりさらに焦ったような声が聞こえてきた。
「羽子! 大丈夫⁉」
思わず手が宙で止まる。病室に、羽子さん以外の人がいる。見舞い客がいるということだ。
そうか、彼女を見舞う人がいるんだな、と僕は当たり前なことにいまさら気づいた。
なんとなく、彼女のことを世界にひとりきりだと思いこんでいた。僕と彼女はまったく別の人間なのに、どこか自分を投影していたのかもしれない。バカだな、と自分でも思う。
彼女自身、家族がいると言っていたのにすっかり忘れてしまっていた。
「どうしたの? 具合が悪い?」
「大丈夫……。ちょっとふらついただけ」
全然大丈夫ではなさそうな声で、羽子さんが返事をしている。
会話の相手は女性だ。少し低く、年齢を重ねた声に聞こえた。羽子さんの家族だろうか。
「悪いけど……今日はもう帰ってくれる?」
「まだ来たばかりじゃない。それに羽子、ひとりになったらまた絵を描くつもりでしょう。無理しないように言ってるのに」
「描かないって。約束する。だから、ごめんだけど……」
「そんなこと言って。私たちがいなくなったらまた――」
「お母さん」
もうひとり、別の女性の声がした。今度は若い。羽子さんより若いかもしれない。
「今日は帰ろう。私たちがいても、お姉ちゃんは休めないよ」
「
「お姉ちゃん。私たち帰るから」
「……そうね。明日の朝また来るわ。きちんと休むのよ羽子」
羽子さんの「ありがとう」が聞こえ、まずいと思った。いや、まずいことはないのだが、羽子さんの家族と鉢合わせても、自分と彼女の関係を上手く説明できる気がしない。
だが、僕は残念ながら運動神経だけでなく反射神経も鈍い。病室から離れる前に、目の前のドアが開かれてしまった。
「……あら? どちらさま?」
真正面にいた僕を、驚いたように見上げる女性。髪をうしろでひとまとめにしたその人は、羽子さんにそっくりだった。はっきりとした目元が特に似ている。顔色はあまりよくないし疲れて見えたが、たぶん僕の母と同じくらいの年齢だろう。
この人が、羽子さんの母親か。
誰にでも母がいる。それは至極当たり前のことなのに、やっぱり僕は不思議な気持ちになった。
羽子さんの母親の後ろに、学生服姿の少女がひとりいた。肩より少し短い髪の、涼しげな目をした子だ。中学生だろうか。先ほど羽子さんを「お姉ちゃん」と言っていた。あまり似ていない妹だと思う。まあ、僕と梓ほどではないかもしれないけれど。
「あ。虹!」
ベッドの上から、嬉しそうな声がした。
羽子さんが僕に軽く手をふっている。ひどく億劫そうにして、すぐにその手は降ろされた。随分体調が悪いようだ。
「羽子さんつらそうだし、今日は僕も帰るよ」
「えっ。待ってよ。せっかく来たんだから、少しだけでも……」
「いや、でも……」
ちらりと羽子さんの母親を見る。彼女も僕を精査するようにじろじろ見ていた。
なぜ娘の病室に高校生が、と不審がっているのが表情から伝わってくる。
「はじめまして。羽子の母です」
「どうも。綿谷です」
「失礼ですが、娘とどういったご関係で?」
「虹は友だち! この間、憩いの庭で知り合ったの。ねぇ、虹?」
羽子さんの言葉に、僕ははじめて僕らが友だちという関係になっていたことを知った。とてつもない違和感はあったが、憩いの庭で知り合ったのは間違いないので黙ってうなずく。
羽子さんの母親は納得がいかないようで警戒を解かない。だが諦めたようにため息をつくと僕に頭を下げた。
「絵は描かないように見張っていただけますか」
「はあ……わかりました」
「よろしくお願いします。羽子、無理はしないように」
「わかってる。……ありがと」
羽子さんの母親が病室を出ていく。妹もそれについて行くかと思いきや、すぐには動かない。じっと僕を見たまま立っている。
羽子さんの母親と話しているときも、彼女はずっと僕を見ていた。観察するような、見透かそうとするような目だ。
睨まれているのとはちがう気がした。敵意も感じないので、僕は小さく頭を下げる。すると相手も同じように返し、今度こそ母親を追って病室を出ていった。
「ごめんね、虹。お母さんも妹も感じ悪くて」
「別に悪くはなかったんじゃない」
「本気で言ってる? 虹はお人よしだね……」
体を起こそうとした羽子さんだが、途中でパタリと力尽きたようにベッドに逆戻りした。長く細いため息が、彼女の唇から吐き出される。
「痛いの?」
「痛くないよ。薬が効いてるから。これくらいはね」
痛いうちに入らない。まるで痛みに張り合うかのように言う羽子さんに、僕は首を傾げた。
なぜ強がるのだろう。痛いなら痛いでいいのではないだろうか。痛がったところで、誰に咎められるわけでもないだろうに。
「……本当に、病院抜け出せるの?」
僕の問いかけに、羽子さんは紙のような顔色をしながら笑った。
「当たり前でしょ。抜け出せるかどうかじゃない。抜け出すの、絶対。それで日の出を見に行くんだから」
「わかったよ。じゃあ……具体的な計画を立てようか」
「そうこなくっちゃ。動くのはね、その日の最後の投薬が終わってからがいいと思うの。時間は――」
最初は張り切ってあれこれ意見をあげていた羽子さんだったけれど、段々と元気をなくし口数を減らしていった。萎れた花のようにくたりとした彼女を見て、やはり病人なのだなと改めて感じた。
それでも僕と話しをしたがるので帰るに帰れずにいると、そのうち羽子さんは意識を手放すように眠りに落ちていた。
形の良い唇がひび割れている。もうすぐ枯れてしまうのだ。それはそう遠くない未来の話なのだろう。
ふと窓辺のイーゼルに目をやる。立てかけられたキャンバスには、描き途中の絵があったが、何を描いたものなのか僕にはわからない。ただなんとなく、これも彼女が本当に描きたいものではないのだろうと思った。
病院脱走の実行日は、三日後に決まった。
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