第31話 生の搾取

 羽子さんの母親が真っ先に病室に駆けていく。

 次いで青子さん。僕と母もふたりに続いて病室に向かうと、床には絵の具や筆が散らばり、イーゼルに重なるように羽子さんが倒れていた。



「羽子!」


「お姉ちゃん!」



 家族に抱き起こされながら、羽子さんが低く呻く。

 生気を失った土気色の顔を見て、さっき彼女の母親があれほど激高していた理由がわかった気がした。



「寝てなさいって言ったのに、また……!」


「筆……とって」


「ダメよ! 痛いんでしょう? 薬が効いてないんだわ。青子、ナースコール押して! 薬を追加してもらわなきゃ」


「ダメ!」



 突然、羽子さんは母親の手を振り払い、落ちたキャンバスにしがみついた。



「呼ばなくていい! 薬はイヤ!」


「そんなこと言ったって、痛いんでしょう⁉」


「薬は絶対イヤなの! 眠くなる! いらない!」



 まるで小さな子どもが癇癪を起しているかのように、羽子さんはイヤだイヤだと泣き叫ぶ。

 あまりの痛みに、精神が逆行してしまったのかと思うほど、彼女は取り乱していた。僕は夜明けの海で味わったあの衝撃的な痛みを思い出し、そうなるのも当然のことだと腹の辺りに手をやった。



「眠っていいの、羽子。眠るべきなの。薬が効いてるうちに、少しでも休まないと——」


「寝たくないんだってば! 寝たら絵が描けないでしょぉ……っ」


「お姉ちゃん……」



 痛いと泣きながら、筆をたぐり寄せ握りしめる羽子さん。

 姉のその姿に、青子さんは目に涙を浮かべ、途方に暮れた顔で立ち尽くしている。



「描きたいの……描かせてよぉ……うー」



 僕はというと、子どもになってしまったような羽子さんを、ただじっと見つめていた。

 命がけでわがままを言う羽子さんの姿は、眩しかった。痛みに抗いながらキャンバスにすがりつく羽子さんは、熱く光り輝いていた。

 薬を追加すれば、痛みから解放される。彼女曰く、死にたくなるほどの痛みから。

 それなのに薬を拒否し、痛みを受け入れるのは、彼女が生きているからだ。いまを必死に、全力で生きているからだ。

 圧倒的な命の輝きを前に、僕の手は自然と伸びていた。



「羽子さん」



 声をかけると、彼女はハッとしたように僕を見上げ、僕が触れる前に強くしがみついてきた。



「こ、虹……虹……」


「うん。僕だよ」


「虹、助けて……私ね、描きたいの」


「うん」


「薬はイヤなの……描きたいの……助けて、虹」


「うん。わかってるよ」



 僕はそっと、彼女の骨の浮いた背に手を当てた。

 ゆっくりと、ボコボコとした背中を撫でる。



「大丈夫だよ、羽子さん。ちゃんと薬が効いてくるはずだから」


「薬はイヤぁ……」


「わかってる。眠くはならないよ。でも痛くなくなるよ」



 羽子さんの体がどんどん熱を帯びていく。

 いや、熱くなっているのは羽子さんではなく、僕の手のひらか。手のひらが、燃えるように熱い。いま僕は、彼女の命に触れようとしている。



「痛いの痛いの……」



 飛んで、こい。

 腕の中にいる羽子さんにさえ聴こえないくらいの声で囁く。何度も、丁寧に、繰り返し囁く。

 彼女を苦しめる痛みの全てよ、僕の体に——。


 どれくらいそうしていただろう。

 やがて羽子さんの震えが止まり、うめき声が止み、呼吸が落ち着くと、彼女はゆっくりと顔を上げた。



「羽子……?」


 羽子さんの母親の声に、彼女はぼんやりとした調子で「痛く、ない」と呟いた。


「痛くない。痛くない!」



 力強い叫びとともに、羽子さんが勢いよく立ち上がる。

 彼女はわきめもふらず、床に散らばった絵の具をかき集め、イーゼルを立て直し、キャンバスをセットした。

 パレットと筆を手に、しっかりとふたつの足で立つ姿は、先ほどの彼女からは想像もつかないほど安定して見える。



「ど、どうしたのお姉ちゃん」


「痛みが落ち着いたなら、少し休んだほうが……」


「痛くないうちに描かなきゃ! ちょっとでもいいから、描きすすめなきゃ!」



 消えかけたろうそくの火が、再び強く大きくなったような姿だった。

 だが溶けた蝋が戻ることはない。火が大きくなればなるほど、蝋は無情なスピードで失われていく。

 終わりは近い。わかっていても、わかっているからこそ、羽子さんは迷わない。

 僕にできるのは、羽子さんの火が小さくなって消えてしまわないよう、痛みという邪魔な風を僕の体で防ぐことだけだ。


 一心不乱に筆を動かす羽子さんに、もう声をかけられる人はいなかった。

 僕は母をうながし、そっと病室を出る。彼女に声はかけなかった。かける言葉は見つからなかったし、必要もないと思った。



「あんた……あんな風に、人と接することができるようになったのね」



 エレベーターの中で、母がぽつりと言った。

 僕は言葉を返せない。母もそれは期待していないようだった。



「何も言わないし、止めないわ。あんたの好きにやりなさい」



 なぜか少し嬉しそうに、それでいて寂しそうに言うと、母は先に帰っていった。

 祖母の家に預けている妹を迎えに行く前に、少し仮眠するらしい。僕は寄るところがあると言った。本当に、母は何も言わなかった。


 母の姿が見えなくなってから、僕はフラフラと歩き出した。

 意識は朦朧としていたが、足は勝手に動き、僕をどこかへと運んでいく。

 たどり着いたのは、花の香りがする明るい場所だった。見覚えがあると思ったら、羽子さんと出会ったあの憩いの庭だった。

 彼女の座っていたベンチに向かう途中で、僕の体は限界を迎え、地面に崩れ落ちる。



「……いた、い」


 乱れた呼吸の合間にうめく。


「痛い……」



 夜明けの海で味わった以上の痛みが、僕の全身を襲っていた。

 死んだほうがマシ、と彼女は言った。でも僕が死んだら、誰も彼女の痛みを肩代わりすることはできない。

 この痛みは、生だ。また彼女の元へ戻ってしまわないよう、しっかりと抱えて離さない。離したくない。



「痛い……ううー」



 瀕死の虫のように丸まって呻いていると、花の匂いが少し苦くて甘ったるい匂いに変わった気がした。

 じゃり、と砂を踏む音がして、誰かが傍に立った。必死に目だけ上に向けると、穴だらけのジーンズと、ゴツゴツした指輪だらけの手が見えた。



「何やってんだ、お前」



 あきれているのか、怒っているのか、笑っているのか、よくわからない調子の声。

 司狼がしゃがみこみ、僕の顔をのぞく。咥え煙草の幼なじみは、やはり表情の読めない顔をしていた。



「死ぬのか、虹?」


「……死、なない」



 やっとの思いで答えた僕に、幼なじみは皮肉気に笑って苦い煙を吹きかけた。




 

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