第30話 叱責と感謝


 夜勤明けの母と落ち合い、緩和ケア病棟へと向かった。

 受付に吉村さんがいたので「大変ご迷惑をおかけしました」と深く頭を下げると、気まずそうな顔をされる。



「ないとは思うけど、もうしないでね」


「はい。すみませんでした」



 なぜ吉村さんが気まずそうな顔をするのかわからなかったが、とにかく母とふたりで頭を下げた。

 羽子さんの病室に向かうと、ドアの前の廊下で彼女の母親と妹が話しこんでいた。 

 言い争うような雰囲気に僕らが立ち止まると、向こうもこちらに気づく。羽子さんの母親は僕を睨みつけツカツカこちらに向かってくると、勢いのまま僕の頬を平手打ちした。



「お母さん⁉」



 慌てたように羽子さんの妹、たしか青子さんだったか。彼女が駆けてきて自分の母親を羽交い絞めにした。

 当然痛みはなかったが、打たれた頬に手を持っていく。なんだか最近、平手打ちばかり受けている気がする。



「あなたが羽子を連れ出したせいで! あの子は……あの子は……っ」


「……まさか」



 羽子さんの体が危ないのか?

 何かが肌を駆け抜けていくような不気味な感覚がして、羽子さんの病室を見る。

 あのドアの向こう、ベッドの上で意識を失い、呼吸器だの心電図だの点滴のチューブだのを全身に繋がれている彼女を想像してしまった。



「あの子が死んだらどうしてくれるの! あなたのせいよ!」



 羽子さんの母親が泣きながら僕を責め立てる。

 常識がない、面白がっている、人でなし、二度と娘に近づくな、人殺し。様々な罵詈雑言が飛んできたが、どれも僕の体を素通りしていく。羽子さんの母親の言葉を受け止めるよりも、彼女のことで頭がいっぱいになってしまった。

 最後に描きたいものがどうしてもある。そのために立ち止まることはできないのだと、無理を押して海まで行った。ようやく羽子さんが望んでいたものが見られたのに、ここで終わってしまうのか。


 突然足元に真っ暗な穴が開き、そこに落ちかけたとき「いい加減にして!」という叫びが廊下に響いた。

 羽子さんの声に聞こえたが、叫んだのは彼女の妹・青子さんだった。姉妹だからか声質がとても似ている。全体的な雰囲気はちがうが、目も意思の強さを感じる羽子さんのそれと似ていた。



「お母さん。お姉ちゃんが死んでも、それはこの人のせいじゃないでしょ」


「な、何を言ってるの青子……? この男が病室から無理やり連れだしたせいで——」


「だから、いい加減現実を見なって言ってんの! お姉ちゃんが死ぬのはとっくに決まってたことでしょ?」


「なんてこと言うの!」


「じゃあお母さんは、お姉ちゃんのガンが治ると思ってるわけ⁉ 全身転移して、手術もできなくて、抗がん剤も効かなくて、緩和ケアに入るしかなかったお姉ちゃんが助かるとでも⁉」



 静かな病棟に青子さんの声は大きく響く。

 さすがに看護師である僕の母が「申し訳ありませんが、院内ではあまり大きな声でそういうことは……」とやんわり止めに入った。

 羽子さんの母親は口をはくはくと動かすだけで、言葉が出てこないようだった。

 青子さんはため息をつき「ごめんなさい」と謝る。誰への謝罪かはわからなかった。



「あの、姉は大丈夫です。数値は悪くなってるらしいけど。それより——」



 青子さんは僕の前に立つと、何を思ったのか頭を下げた。丁寧に、深々と。

 お互いの母親が驚くが、僕もさすがに想像もしなかった反応に戸惑った。



「ありがとうございました」


「……え」


「姉を連れ出してくれて、ありがとうございました」


「何でお礼なんか言うの青子!」


「お母さんは黙ってて。……ええと、虹さん、でしたっけ」



 名前を呼ばれ、僕は心持ち背筋を伸ばし「はい」と返事をする。



「姉は、ずっと焦っていました。余命を言い渡されてから、痛みがなくても夜眠れないくらいずっと」


「……見つからなかったから?」


「はい。私もどうにかしてあげたかったけど、大人はみんな、姉の焦りを無視するんです。それよりもっと体を、命を大事にしろって。三ヶ月後に死ぬって決まってるのに大事にしろなんて言われたって、鼻で笑っちゃいますよね」


「鼻では笑わないけど……困るかもしれないね」



 僕の答えに、青子さんは複雑な顔で笑った。

 あなたは少し姉に似ている、と不思議なことを言いながら。



「だから、ありがとうございました。あなたのおかげで、姉は最後に描きたいものが見つかったみたいです。やっと姉にとって本当に大事にしたいことができる」


「僕は……羽子さんが行きたいって言ったから、ちょっと手を貸しただけだよ。彼女は自分の意思で、自分で見つけたんだ」


「でもきっと、あなたがいなきゃ見つからなかったんだと思うんです。あんなに生き生きした目で絵を描く姉を、久しぶりに見ました。本当に……ありがとうございました」



 もう一度深く頭を下げた青子さんの姿に、羽子さんの母親は両手で顔を覆い泣き出した。その背中を僕の母がそっと撫でる。

 頭を下げ続ける青子さんの肩が震えていることに気づき、僕も撫でるか、何か声をかけるべきかと考えたとき、羽子さんの病室から何かが倒れるような大きな音がした。

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