第29話 確認作業


 検査が終わり、退院の手続きをしていると、ひょっこり司狼が現れた。



「お前の母ちゃんに、くそ怒られたぞ」



 うんざり、というよりはただの事後報告といった淡々とした言い方だった。

 どうやら機嫌は悪くないらしい。そういえば、司狼は昔から僕の母のことを「いい母ちゃん」と言っていた。嫌いなタイプではないのだろう。

 司狼は気に入らなければ、相手が女だろうが年寄りだろうが関係なく殴る。でも子どもに手を出すところは見たことがない。優しくしているところも見たことはないが。



「ごめん。巻きこんで」



 ロビーのベンチに移動して、僕は頭を下げた。

 前に座った老人がちらりとこちらを振り向いたが、司狼の風貌を見て慌てたように前を向く。



「別にいいけどな。つーかお前のオトモダチ、ここの入院患者だったんだって? 患者連れ出すとか、お前も思い切ったことすんなぁ」


「羽子さんがどうしてもって言うから。多分もうしない」


「できねーだろ。次やったら殺されんじゃね? オトモダチの親とかに」


「……やっぱりそうかな?」


「フツーの家ならそうだろうな。またやんなら協力してやるけど」


「いや。たぶんその必要はないと思う」



 夜明けの海で見た、羽子さんの横顔を思い出す。

 彼女はおそらく、望んでいた景色を見ることができたのだろう。だからもう病院をこっそり抜け出す理由もなくなった。



「あっそ。で? お前はどうだったんだよ? 検査入院だったんだろ?」


「うん。特に異常はなかったよ」


「へえ? じゃあ何で倒れたんだよ」


「……痛かったから」


 僕の答えに、司狼は訝しげに眉を寄せる。


「痛かった? お前が?」


「たぶん、あれが痛いってことなんだと思う。死ぬほど痛い、とかよく聞く例えだけど、はじめて意味がわかったよ」


「ふーん……」



 忙しそうな受付を見つめながら気のない返事をする司狼。

 シルバーの指輪をはめた指が、痛んだ金髪をいじっている。ごつごつしていて重そうな指輪だな、と思ったとき、いきなり視界がぐるんと回ったので驚いた。

 周囲にいた会計待ちの人たちが、悲鳴を上げて席を立つ。



「痛いか?」



 にこやかに拳を見せて聞いてきた司狼に、僕はようやく殴られたことを理解した。

 指輪をしていない左手だったあたり、手加減はしてくれたのだろう。一応右頬に触れてみたが、特に異常は感じなかった。



「いや。全然」


「あんだよ。無痛症が治ったんじゃねぇのかよ」


「無痛症は治らないよ」


「でも痛かったんだろ?」


「うん。まあ、あれはたぶん僕の痛みじゃなかったから」



 司狼が「はあ?」と顔をしかめたとき、僕の番号が呼ばれた。

 受付に行くと、事務の女性が僕を見てギョッとした顔をして、すぐさま箱ティッシュを差し出してきた。



「大丈夫ですか? 口から血が出てますけど」


「え? ああ……どうも」



 遠慮なくティッシュをもらって口元をぬぐうと、確かに赤く染まっていた。

 さっきの司狼のパンチで口の中を切ったらしい。舌で探すと、少し抉れているような部分があった。

 だが舌でそこをぐりぐりと刺激しても、やはり痛みはなく、血の味もしない。僕の体は間違いなくポンコツのままだ。



「何。あんなショボいパンチで口切ったのかよ。相変わらずくそザコだなぁ」



 ティッシュを口にくわえながら戻ると、僕を殴った男があきれた顔をして待っていた。

 悪びれない態度はいつものことだ。司狼にとって、暴力は特別なことではない。



「だから、やるならやるって言ってくれないと。僕は痛みを感じてとっさにふんばるとかできないんだから」


「ちゃんと手加減してやっただろーが。しょうがねぇ。何かおごってやるから行くぞ」



 そう言ってだるそうに立ち上がった司狼に、僕はやっと彼が迎えに来てくれたらしいことを悟った。



「司狼ごめん。おごってもらうの、また今度でもいい?」


「あ? 用事でもあんのか」


「うん。羽子さんのところに謝りに行かないと」


 司狼も行くかと聞くと、幼なじみは「うげ」とピアスのついた舌を見せた。


「もう怒られんのは勘弁。じゃーな、虹」


「わかった。また」



 オトモダチによろしくな、とニヤニヤ笑いながら司狼は去っていった。

 遠ざかる背中を見つめながら、もし僕が無痛症ではなくなったとしたら、司狼はどうするのだろうなと考えた。


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