第28話 二度目の誕生


 目覚めた瞬間、頬に母の平手が飛んできた。

 パシンとなかなかいい音がしたが——。



「……痛く、ない」



 これまでと変わらない僕がいた。

 殴られても痛みを感じない、半分死んだ体を持つ僕が。



「虹。自分が何をしたか、何があったのか覚えてる?」



 深く長いため息をついた母が、疲れたように聞いてきた。

 視線を巡らせると、僕の寝ているベッドを囲む薄桃色のカーテンが見え、ここが病室であることを悟った。どうやら僕は、あのあと病院に運ばれたらしい。

 空白の時間を想像して、まずは「ごめん」と謝った。



「母さん、怒られた?」


「……私が誰に怒られると思ったの?」


「そりゃあ……病院の偉い人とか」



 僕の答えに母はさらにため息を吐きながら頭を振った。



「虹。確かに私は怒られたけど、それは病院関係者からじゃないわ。椿坂羽子さんのご家族から怒られたのよ」


「あ……」


「あんたの母親として誠心誠意謝罪してきた。あんたも退院したらきちんと謝んなさい」


「はい。ごめんなさい」



 母は「よし」と微笑むと身を乗り出した。



「で? 椿坂羽子さんとはどういう関係?」


「えっ」


「友だちじゃないって言ってたわよね? もしかして彼女だったりするの?」


「えーと……」


「あんたの答え次第では対応が変わってくるんだから、正直に答えなさい」



 真剣な顔を作るが、どこか面白がっている風な母。

 いや、これは喜んでいるのだろうか。僕に初めての彼女ができたのでは、と期待しているのかもしれない。残念ながらその期待に沿うことはできそうにないが。



「友だちらしい。彼女が言ってた」


「あら。そうなの」


「うん。だから僕の片思いなんだ」



 一瞬あからさまにがっかりした母が、続けた僕の言葉に目を見開いた。



「……そう。じゃあ、椿坂さんには謝罪以上に感謝しなきゃね。あんたに人を好きになる気持ちを教えてくれたんだから」


「あんまりそういうこと言われるのは……」


「ああ。教えてくれたのは失恋の痛みもか」


「母さん……」



 息子をここぞとばかりにからかう母に、今度は僕がため息をつく。

 こういうやり取りは初めてで、非常に慣れない。居たたまれないという気分を味わったのも初めてな気がした。



「羽子さんは、大丈夫だった?」


「病棟に戻ったわよ。むしろ彼女より、あんたの方がヤバかったらしいじゃない。司狼くんに聞いたけど、急に苦しみ出したんだって? 意識失っている間に色々検査したけど、特に異常は見つからなかったっていうし。一体何があったの?」



 異常は見つからなかったのか。

 僕は海で体を襲った衝撃を思い出し、ベッドの中で体の中心に手をやった。

 やはりいまはもう何ともない。僕に本当の死を予感させたあの衝撃は、きれいさっぱり消えている。そして体には何の異常も見つからなかった。

 あれは、あのとき、あの瞬間だけのものだったのか。



「母さん……痛いって感覚、はじめてわかったよ」


「え……?」


「すごかった。あれは本当に、痛い、だ」



 ズグンズグンと脈打つ激しい痛みと、鈍くずしりと圧しかかる痛みがあった。

 痛みにも種類があるのだと、初めて知った。正体不明の化け物に、体の内側から食い殺されるような恐怖があった。

 あんなものと、羽子さんは毎日戦っているのか。

 証拠などないが、僕は確信していた。あれは羽子さんの痛みだったのだろうと。



「ま、待って。あんた、痛かったの? 痛くて倒れたって? いまは? いまは何ともないの?」


「いまは痛くないよ。でもあのときは、死ぬかと思った」


「……大変。ちょっとドクターに知らせてくる!」



 そう言うと、母は病室を飛び出していった。

 すぐに僕の無痛症に関する精密検査が行われたが、やはり異常は見つからず、検査結果もこれまで通りだった。

 母は安堵しながらも少し落ちこんでいたが、僕は納得していた。

 当然だ。あれは僕自身の痛みではなく、羽子さんの痛みだったのだから。


 羽子さんに、会いに行かなければと思った。


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