第23話 夜と海

 司狼の運転する車は、騒音をまき散らしながら海へと向かった。

 車内でも司狼は煙草を吸い続けていて、狭い空間には独特な甘い匂いが満ちていた。

 司狼はいちいち「煙草吸っていい?」などとは聞かない。吸いたいときに吸う。禁煙スペースだろうと関係なく吸う。羽子さんのような病人にはもちろん良い影響はないだろう。だが羽子さんが何も言わなかったので、僕も黙っていた。運転席の窓は、気づけば半分ほど開かれていた。


 以前も来た堤防に到着し車が停まると、嘘のように一瞬で静けさが訪れた。

 エンジンの爆音に慣れつつあった耳に、静寂が耳に痛いくらいだ。それは羽子さんも同じだったようで、微妙な顔で耳を押さえている。平然としているのは司狼だけだ。

 先に車を降り、後部座席のドアを開ける。横になっていた羽子さんに手を貸して、外へと連れ出した。

 ビュウと強く風が吹き、羽子さんの髪とワンピースの裾をたなびかせる。暗闇と潮の匂い、そして海鳴りが僕らを包んだ。



「しっかし、何で日の出? そりゃ今度連れてってやるとは言ったけどな。あくまで早起きできたらって話なわけで。いまからだとかなり待つぞ?」



 新しい煙草に火をつけながら、司狼が腕時計を確認して言った。

 僕は羽子さんと顔を見合わせ「知ってる」と答えた。

 日の出の時間は調べてある。現在午後11時を回ったところ。日の出は午前4時半頃だ。



「だから司狼はもう帰っていいよ」


「てめ。海には来れたからもう用なしだって言いたいのか?」


「別にそうは言ってないけど」


「俺をアシ扱いするたぁいい度胸だ。決めた。絶対帰らねぇ。お前らが何するつもりか知らねぇけど、見届けてやる」



 僕を小突きながらも、司狼はどこか機嫌良さげにそう言って堤防の階段を上っていく。

 羽子さんが司狼にも聞こえる声で「帰っていいのに」と言ったけれど、司狼はどこ吹く風だ。煙を潮風に遊ばせ「早起きは苦手だけど、徹夜は得意だ」と笑った。

 言い出したら聞かないことは、長い付き合いでわかっている。羽子さんは司狼を良く思っていないようだが、あきらめてもらうしかない。


 僕らも司狼のあとに続き、堤防の上にに立つ。

 風と潮臭さが一層強まった。真っ暗な海はどこまでも広がり、夜空との境界が曖昧だ。波音と遠くに見える船の明かりだけが、ここに海があると教えてくれる。

 この暗い海の中にも生き物がいて、泳いで、息をしていると思うと不思議だった。見えないけれど確かにそこにいる彼らは、何を考え生きているのだろう。



「虹。落ちないでよ?」



 気づけば前のめりに海をのぞいていたようで、羽子さんが僕の腕を掴んで言った。

 僕の意思を確かめるような聞き方だった。自殺でもしそうに見えたのだろうか。



「……羽子さんのほうが、風に吹かれて落ちそうだよ。座ろうか」



 リュックを降ろし、堤防に座りこむ。中からブランケットを出し、隣りに敷いた。

 羽子さんが「優しいじゃん」と嬉しそうに言って遠慮なく座る。司狼は僕らとは少し距離を取り、後ろのほうで腰を下ろした。

 じめっとした夜だ。月は雲に隠れたままで、風は弱々しい。暑さはよくわからないが、肌にまとわりつくような空気はわかる。不快ではない。ただ、少しだけ息苦しく感じた。



「私、夜の海って初めてかも」


 ぽつりと、羽子さんの呟きが波の合間に落ちる。


「昼間と全然ちがうね」


「ちがう……そうかな?」


「ちがうじゃん。昼間の海にはどこまでも続く広さばかり感じるけど、夜の海にはどこまでも続く深さばかり感じる」



 聞いていた僕は似たようなものじゃないかと思ったが、海を見つめているとなんとなくわかるような気がしてくる。そして段々と、海と空を飲みこむ暗い闇が、目の前に迫ってくるように感じた。



「生と死」


「……え?」


「なんとなくのイメージ。私にとっては明るいときに見る海のほうが魅力的だな。虹はどう?」


「僕は……」



 答えられなかった。

 魅力的、というのがわからない。どちらよりかで言えば、恐らく僕は夜の海側なのだろう。それはなんとなくわかる。夜の海は嫌いではない。昼の海もまた。



「虹はその間で迷子になってる感じかもね」



 暗い海を見たまま口をつぐむ僕に、羽子さんはそんなことを言った。

 随分年下扱いされているように感じたが、それよりも迷子という言葉が妙にしっくり来て、音にはせず繰り返す。

 いま自分がいる場所すらわからず、ただ途方もなく広がる何もない空間で立ち尽くす子どもの姿が頭に浮かぶ。これが僕か。

 前方が明るくなり、そこから誰かが歩いてくる。現れたのは羽子さんだ。白いワンピースを着て光り輝く彼女は、まるで天使のようだ。

 天使が微笑みながら、僕に手を差し出してくる。淡く発光するその手を、僕は黙って見つめた。

 この手を取るべきか否か。僕が取っていいものなのか、子どもの姿をした僕は迷っている。

 そうやってフリーズした僕の手を、羽子さんのほうから強引に取った。しっかりと握り締めてくる手が「ほら、行くよ」と言っている。

 羽子さんの姿をした天使を、とてもきれいだと思った。手を引かれるのも嫌じゃなかった。この人が手を繋いでくれるのなら、どこへでも行ける気さえした。

 けれど、彼女と明るい方向に進む前に、僕は振り返った。

 背後に広がっていたのはひたすら深く広がる闇で、そこにぽつんと立っていたのは――。



「……どうした、虹?」



 くわえ煙草の幼なじみが、僕を見ていた。

 いつの間にか消えていた波の音が戻ってきて、潮の香りに包まれる。僕が、僕らがいるのは何もない空間ではなく、夜の海の防波堤だった。



「虹?」



 隣りの羽子さんからも訝し気に呼ばれ、僕はふたりに「何でもない」と答える。

 結局僕はまだ、どこにも行けない迷子のままだった。

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