第22話 海へ

 夜間通用口の受付は、気のいい警備員に頭を軽く下げてやり過ごした。スーツケースについては特に言及されることもなかった。荷物を運び入れる家族は珍しくもないのだろう。

 病院を出て近くの公園へと向かう。急ぎ足で、けれどなるべく振動を与えないよう気をつけて。

 公園にひと気はない。それでも奥へと進み、周囲を警戒しながら木陰に隠れた。

 スーツケースを慎重に横に倒し、ファスナーを開く。真っ白な顔色をした美人が、膝を抱え眠っていた。

 

「羽子さん?」


 眠り姫はぴくりとも動かない。ガラスケースの中で、きれいなまま保存された蝶のように見えた。


「……死んだの?」


 思わず漏れた僕の言葉に、パチリと大きな目が開いた。

 かと思えば、その目が僕を捉え、ひどく心外そうな顔をする。


「まだ死んでない」


 長いまつ毛がゆっくりと上下する。蛹から羽化した蝶が、羽を広げ確かめるような動きだった。

 けれど羽子さんはすぐには起き上がらない。いや、起き上がれないのか。スーツケースの中で丸くなったまま、億劫そうに息を吸い、吐く。



「大丈夫?」


「うーん。スーツケースの中って、思ったより居心地良くないんだね」


「まあ、そうだろうね」


「狭いし、息苦しいし、揺れるし。吐くかと思った。っていうか吐きかけたけど、意地で飲みこんだ」



 それはさぞつらかっただろう。僕も吐いたことがある。確か、学校で誰かに腹を殴られたときだっただろうか。味はよくわからなかったが、匂いがなかなかきつかった。

 僕が背負ったリュックからペットボトル入りの水を出すと、羽子さんはのろのろ起き上がり受け取った。

 細い喉が音を立てて上下するのを「生きてるなあ」と思いながら見守る。



「はあ……ありがと。私がいないのに気づいた病院のスタッフが探しに来る前に、早くここを離れなきゃ」


「うん。立てる?」


「虹が手を貸してくれればね」



 言われた通り手を差し出すと、羽子さんはそれを取り、エスコートされるお姫様のように立ち上がった。

 僕は空になったスーツケースを、犬井さんに感謝しながら閉じる。

 お姫様は一度、星のない夜空を見上げると、思ったよりもしっかりとした足取りで歩き出した。


 右手で羽子さんの手を、左手でスーツケースの取っ手をしっかり握りながら公園の裏手に出ると、司狼が待っていた。路肩に停めたやたらと車高の低い黒い車に寄りかかり、煙草を燻らせている。

 現れた僕らを見て、司狼は片眉をくいっと上げた。



「車を出してほしい、なんて珍しく頼み事してきたかと思えば女と逃避行とは。虹も隅に置けねぇなあ?」


「別にそういうんじゃ――……いや、そうなるのか?」


「へえ。お前もオトコノコだったんだなぁ」



 感慨深げに言うと、司狼は僕からスーツケースを受け取り、羽子さんの顔を覗きこんだ。

 司狼の吸う煙草の甘ったるい匂いが僕らを包む。



「どーも、綺麗なお嬢さん。あんた、海が見たいんだって?」


「ちがう」



 間髪入れずに否定した羽子さんに、司狼が鼻白む。



「あ? ちがうのかよ」


「海が見たいんじゃなく、日の出が見たいの。あなたが連れて行ってくれるの?」



 司狼は痛んだ髪をがしがしかき混ぜ「めんどくせぇけどな」と本当に面倒そうに言った。

 バイクは好きだが、車の運転は面倒だと前に言っていたので、そのことだろう。以前一度だけ司狼の運転する車に乗ったことがあるが、意外にもわりと安全運転だった。あくまでも、バイクと比べてだが。



「ところでお嬢さん。あんた、うちの虹とどういう関係?」



 スーツケースを車のトランクにしまいながら、司狼が尋ねる。

 うちの虹、の部分がわざとらしく聞こえ、僕は内心首を傾げた。

 僕はもちろん司狼と血縁関係にはないし、うちのと身内扱いされるほど濃密な付き合いはしていない。そもそも、司狼の世界には自分と他人の二種類の人間しかいないのだ。司狼はきっと、実の弟である泰虎のことさえ「うちの」とは言わないだろう。



「私と虹は友だちよ」


「友だち? あんたが、こいつの?」



 羽子さんと僕を順に指さし、信じられないとばかりに目を見開いた司狼は、次の瞬間吹きだした。車の通りの少ない夜道に、ゲラゲラと笑い声が響き渡る。

 司狼がこんな風に大笑いするのは珍しくて、僕はついまじまじと見た。

 司狼の言葉には特に何も感じなかったが、羽子さんはひどく不愉快そうに眉を寄せた。



「何がそんなにおかしいの?」


「いやぁ、悪い。だってなあ、友だちなんて虹には縁のないもんだし」


「どういう意味よ、それは」


「そのままの意味だよ。なぁ、虹? お前、友だちとかできたの初めてじゃね? どうよ、初のお友だちは」



 ニヤニヤ笑う司狼の問いに、僕は首を傾げる。

 羽子さんが友だちだという感覚が僕にはない――というか、よくわからないので何とも言えなかった。

 そんな僕の反応が予想通りだという顔で司狼は立ち上がり、僕の肩を軽く叩いた。



「てっきりオンナが出来たのかと思ったけど……ま、良かったんじゃね?」


「何が良かったの?」


「さてな。おら、お前らさっさと乗れよ」



 偉そうに言うと、司狼は先に運転席へと乗りこんだ。

 その姿を睨みつけるようにしていた羽子さんが「あの人、虹の何?」と不機嫌そうに聞いてくる。



「なんか、随分感じ悪くない? っていうか全体的に失礼」


「司狼は幼なじみなんだ。見た目はあんな感じだけど、悪い奴じゃないよ」


「見た目はどうでもいいのよ。悪い奴かそうでないかは、私が決めるわ」



 何がそんなに気に障ったのかはわからないが、羽子さんの司狼の印象は最悪なようだ。これから司狼の運転で海に向かうのに、大丈夫だろうか。

 だがいつもの元気は戻ってきたようで、後部座席に乗りこむと勢いよくドアを閉めて車を揺らしていた。

 少し迷って僕が助手席に座ると、司狼が顔を寄せてきて「お前、女の趣味悪いな」などと言うものだから、少し呆れた。女をとっかえひっかえして、昨日一緒にいた女が誰かも覚えていないような男には言われたくない。

 羽子さんは聞こえているのかいないのか、後部座席に寝転び目を閉じている。



「大丈夫なん? なんか死にそうな顔してるし」


「まだ死んでないって言ってたから、大丈夫だよ」


「そりゃ死んでたら日の出どころじゃねぇだろうよ」



 相変わらずズレてんな、と笑いながら、司狼がエンジンをかけた。

 途端にブオンと轟音が響いたかと思えば車が急発進し、まだシートベルトをつけていなかった僕は座席からずり落ちる。

 シートから落ちることは回避できたらしい羽子さんが、両手で耳を塞いで「うるさっ」と抗議した。


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