第40話 白い秘密

 羽子さんの葬儀の後日。

 母に頼まれたものを病院に届けるついでに、僕は緩和ケア病棟を訪れた。

 ナースステーションにいた吉村さんに菓子折りを差し入れると、涙を流す勢いで喜ばれた。



「吉村さんには色々ご迷惑おかけしました」


「……って、言うようにお母さんに言われたのかな?」



 悪戯っぽく聞かれ、僕は素直にうなずく。

 吉村さんには僕が常識を知らないことはバレているので、隠す意味もない。



「でも、吉村さんへの感謝もこめているので。それは僕の本当の気持ちです」



 羽子さんの病室で眠りこける僕を見て、きっと何度もあきれただろう。

 けれど吉村さんは無理に僕を起こすことはしなかった。それどころか面会時間が過ぎても追い出したりせず、大目にみてくれたりもした。

 羽子さんとふたりの時間をたっぷりと過ごせたのは、吉村さんのおかげでもある。だから葬儀が終わったら、お礼を言いに行こうと思っていたのだ。



「そっかぁ。虹くんたら、すっかり大人になっちゃって……」



 親戚のおばさんのような口ぶりで言うと、吉村さんはスンと鼻を鳴らした。

 目元を拭う吉村さんだが、笑顔は崩れない。

 吉村さんこそ、すっかり立派な看護師になったと思う。新人の頃、母さんに怒られて泣いていた彼女を思い出し、感慨深い気持ちになった。



「私は緩和ケアの看護師として、患者さんにとって最適な行動をとっただけ。羽子ちゃんには、虹くんの存在が何よりの薬だと思ったの」


「僕が……?」


「私こそお礼を言わせて。羽子ちゃんを最後まで応援してくれて、本当にありがとうね、虹くん」



 最後のほうは声が震えていた。

 僕はそっと足元に目を落とし、頷く。無性に羽子さんに会いたくなった。

 羽子さん。あなたはとても大切に思われていたよ。


 しんみりした空気に風が吹いた。

 エレベーターホールからぺたぺたと足音を立てて誰かが歩いてくる。



「……あ! 押尾先生!」



 吉村さんがハッとしたように相手を呼ぶ。

 現れたのは、白衣を着た老人だった。

 白い薄い髪に、口元を覆うヒゲ。小柄で背中がわずかに曲がった彼は、吉村さんに向かってひょいと片手を上げる。



「もう、どこ行ってたんですか? 神原先生が探してましたよ!」


「あ、そお? 何だろうねぇ」


「一昨日来た患者さんの治療で確認したいことがあるそうです」


「ふんふん。それじゃ、あとで行ってみようかねぇ」



 のんびり言うと、押尾と呼ばれた医者はペタペタと病室のほうへと歩いていく。

 談話スペースにいた入院患者が、押尾医師に気づき「あらぁ、おじいちゃん先生。こんにちは」とにこやかに声をかけた。



「……え?」



 僕は、押尾医師の小さな背中を食い入るように見つめる。

 黙りこんだ僕に気づかず、吉村さんは「押尾先生にも困ったものだわ」とため息をついた。



「ほーんとマイペースなんだから。隙あらばどこか散歩に出かけちゃうし。まあ老人は散歩が好きだからしょうがないんだろうけど……散歩から徘徊に変わっても気づかなそうで嫌だわ」


「吉村さん」


「あっ! いまのナシ! 聞かなかったことにして!」


「吉村さん。あの先生は?」



 あれは一体誰だ? あれがおじいちゃん先生?

 混乱する僕に、吉村さんはきょとんとした顔で首を傾げた。



「あれ? 会ったことなかったっけ? 緩和ケア医の押尾先生よ」


「押尾……」


「羽子ちゃんの担当医だった方。彼女もおじいちゃん先生って呼んでたの、聞いたことあるでしょ?」


 ある。あるのだが……どういうことだ。あれは僕の知っているおじいちゃん先生じゃない。


「本当にあの人が羽子さんの担当医だったんですか?」


「そうだけど……」


「もうひとり、白髪頭の先生がいますよね? あの押尾先生より、たぶん少し若い感じの」


 吉村さんはいぶかしげに眉をよせ「誰のこと?」と言った。


「緩和ケアには確かにもうひとり医師がいるけど、白髪頭じゃないわ。四十代のちょっと恰幅のいい女性の先生よ」


「女性……? そんな。それはおかしいです。だって僕は、実際会ってるんですよ。羽子さんのことをよく知ってる、白髪頭で覇気のない感じの、年がいってるのか若いのかよくわからない感じの先生に」


「会ってるってどこで? 名前は聞かなかったの? この病院の医師なら、スタッフカードを首からぶら下げてるけど見なかった?」



 自分のスタッフカードを見せながら言う吉村さんに、僕はあのとき会った医師の姿を頭に思い浮かべる。

 確かに首からぶら下げていたかもしれない。だがカード自体はポケットに入れていて、写真も名前も見えなかったのではなかったか。


 僕はナースステーションのそばにある、あの部屋を振り返った。

 工事が終わったらしく、立ち入り禁止の札もフロアサインも取り払われたその部屋のドアノブに手をかける。



「……そんな。どういうことなんだ?」



 扉を開けると、そこには何もなかった。

 以前入ったときは、とにかく真っ白に輝く部屋だった。いまも壁も床もすべて白一色なのだが、天井などの境目がわからなくなるほどの白さではなくなっている。天井、壁、床、窓、扉。きちんと見分けられる普通の白い部屋だ。

 天井付近にある横長の窓からは光が差しこんでいるが、あの全身を包むような輝きではない。確かに同じ部屋のはずなのに、何もかもがちがって見える。



「この部屋、やっと工事が終わったのよ」


「吉村さん……。ここにベンチがありましたよね?」


「ベンチ?」


「はい。真ん中にぽつんと」


「ベンチなんてなかったと思うけど? 工事の邪魔になるから、ここにあったものは全部別の部署の倉庫に移したし」


「そんなはずは……。確かに、ここにベンチがあったんです。羽子さんを病院から連れ出す前と、あとは吉村さんが彼女の衰弱が激しいと教えてくれた日にも、僕はここでベンチに座ったお医者さんと会ったんですよ」


 僕の混乱が移ったかのように、吉村さんにもわけがわからないという顔をした。


「ちょっと待って虹くん。この部屋に入ったの? 羽子ちゃんが亡くなる前に?」


「はい」


「それはおかしいわよ。だってここ、工事の人が入っている間は、ずっと施錠してたはずだもの」


「え……でも」


「それに工事が終わったのは昨日よ? それまではずっと立ち入り禁止の札があったでしょう?」



 吉村さんの言葉に、呆然とする。どう受け止めて処理すればいいのかわからなかった。

 改めて、工事の終わった部屋を見回す。やはり、あの不思議な医者と会ったときとは、まるで別の空間のように映った。



「そういえば……あの窓と窓の間に時計か何かが飾られてたと……」


「時計もカーテンも、とにかく工事の邪魔になるようなものは全部取っ払ってたはずだよ。いまも何もないじゃない」



 確かに壁には何もない。何もないが——だったら、僕があのとき見ていたものは、すべて幻だったというのだろうか。

 僕に手当てを教えてくれた医師は、僕の妄想だった? じゃあ、羽子さんの痛みをとっていた僕の力は?



「あっ。飾るといえば。実はね、ここに羽子ちゃんの絵を飾らせてもらうことになったのよ」


「……え?」



 自分の手を見下ろしていた僕は、驚いて吉村さんを見た。

 吉村さんはちょっと得意げに「ご家族にお願いしたら快くOKしてくださったの」と胸を張る。



「羽子ちゃんが描いてた、あの最後の絵よ」


「あの絵を、ここに……?」


「本当に素敵な絵だったからね。あの絵を見たら、緩和ケアの患者さんたちの心も癒されるんじゃないかと思ったの。この部屋の内装も整ったら知らせるから、虹くんもぜひ見に来てね」



 君ならいつでも大歓迎だから。

 そう言ってくれた吉村さんにお礼をしようとしたとき、廊下から彼女を呼ぶ声がした。



「いけない呼ばれてる! じゃあ虹くん、またね! お母さんによろしく!」



 慌ただしく吉村さんが出ていくと、部屋が静寂に包まれる。

 僕がひとりきりになっても、やはり部屋に変化はなく、あのすべてが塗りつぶされるような白さは訪れなかった。


 僕はベンチがあった場所に立ち、天井付近の窓を見上げてみた。

 僕に手当てを教えてくれたあの不思議な医師は、一体何者だったのだろう。随分とくたびれて見えた。何だか嫌な感じの咳をしていた。彼自身が患者であるかのように。

 白いハンカチを握りしめていた。そのハンカチには、何か刺繍がしてなかったか。

 それは、赤い花のような——。



「……まさか」



 ハンカチを握る骨ばった手。白衣からのぞく手首には、そう、何かが巻かれていた。傷跡を隠す、包帯のような何かが。


 僕はしばらく、その場から動くことができなかった。


 

 

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