第41話 決別

 羽子さんの葬儀が終わり、やつれた僕の体重が戻ってきた頃、夜中に突然司狼が来た。

 以前は突然現れるのが当たり前だった司狼だが、しばらく連絡が取れなくなっていた僕は、変わらない司狼の様子を見てほっとした。ああ、無事だったかと。



「よう、虹。ちょっくら死にに行こうぜ」



 お決まりのセリフすら懐かしく感じる。

 司狼は僕が答える前に、ヘルメットを投げて寄越した。

 反射で受け取った僕は、思わずまじまじとそれを見てしまう。司狼がヘルメットを用意するなんて初めてのことだったからだ。

 まずヘルメットを持っていたこと自体に驚いた。だがヘルメットはひとつしかない。僕の分だけ用意して、自分は被る気がないらしい。



「おら。さっさと乗れよ」



 強引なところは相変わらずだ。僕は一度家に戻り、しっかりと着込んでからバイクの後ろにまたがった。





 バイクがエンジンを止めたのは、あの防波堤だった。

 潮の匂いと海鳴りが暗闇を満たしている。僕らは無言で階段を上り、防波堤の上に立った。

 海風が僕の長い前髪をさらっていく。開けた視界に、海に降り注ぐような満天の星が映った。

 司狼が隣でさっそく煙草に火をつける。また見たことのないライターだった。

 小さな明かりに照らされ浮かび上がる横顔は、美術品のように整っている。司狼の美しさは暗闇の中で一層際立って見えることを、本人は知っているだろうか。

 彼の吸う煙草の独特な匂いは、すぐに風に流されていった。



「司狼は最近、何してたの」


「んー。まあ、色々。身辺整理的な。お前は? 俺がいないうちに死ぬんじゃねぇかと思ってたけど」


「うん。でもとりあえず、羽子さんの絵の完成は見届けられたよ」


「……そうか」



 司狼は星空に向かって、長く煙を吐き出した。

 しばらく黙祷のような侵しがたい静寂が続いた。風の音も海の音も一瞬だって止まることはないのに、こんなにも静かに感じるのはなぜだろう。

 唐突に、寂しいと思った。

 あの夜、抱きしめた羽子さんの重みを思い出し、恋しくなる。いまならもっとしっかりと、優しく、彼女を包むことができるのに。

 

 暗い海と向き合っているうちに、あの夜からすっかり変わった自分に気づき、嬉しいような切ないような、不思議な気持ちになった。

 言葉もなく隣にいても、特別な気まずさも心地良さもない。元々そういう関係だった僕らは、空が白み始めるまでただ黙って横に並び海を眺めた。



「……虹よぉ」


「なに?」



 夜明けの気配を感じながら、僕は横目で司狼を見た。

 司狼は何本目になるかわからない煙草をくわえたまま、去り行く夜を眺めている。



「近々、この街出ることになった」


「え……」



 脳裏に浮かんだのは、堅気には見えない黒い服の男たちと、靴箱に放り入れられたもの。

 司狼も僕に目を向けると「一緒に来るか?」と言った。

 軽い口調だった。だが、なぜか僕の背中が一瞬、ざわりとした。

 底のない沼のような司狼の瞳から目を反らすことなく答える。


 

「行かない。やらなきゃいけないことが出来たんだ」



 少し前の僕なら、司狼に誘われれば深く考えることなく首を縦に振っていたかもしれない。断る理由がないからだ。

 だがいま答えた僕は、自分でも少し驚くほど迷いはなかった。

 司狼はため息のように煙を吐くと、小さく笑った。



「まあ、そう言うだろうなとは思ったよ。冗談だ。忘れろ」



 冗談なんかじゃなかったくせに、司狼はなんとも思っていないように言う。

 僕も変わったが、司狼も変わったのかもしれない。きっとこれから、どんどん僕の知らない司狼になっていく。そんな予感がした。



「泰虎が……司狼がマンションを引き払って音信不通だって、心配してた」


「心配ぃ? それこそ冗談だろ。今度は何をする気だって警戒してたの間違いじゃね?」


「家族にも言わないで引っ越すの?」


「家族なんかじゃねぇよ。最初からな」


 司狼は短くなった煙草を指で弾き、海に捨てた。


「ここに戻る予定はない。もう二度と会うこともねぇかもな」



 司狼の言葉に僕は悟った。

 僕も、司狼の家族と同じように切り捨てられるのだなと。

 多分僕は、司狼にとって特別な存在ではなかった。それでも確かに僕らは、名前もない見えない何かで繋がっていた。

 だが僕が変わったことで、見えない何かも切れてしまったのだろう。



「……僕はまた会いたい。だから、生きててよ」


 僕の答えに、司狼は一瞬鋭い瞳を丸くしたあと破顔した。


「お前、さては虹の皮かぶった別人だな?」


「司狼……」


「お? まさか俺に怒ってんのか?」



 虹も偉くなったもんだ。そう言って司狼は明けていく空に目を細めた。

 笑っているのに、その横顔は寂しげに見える。司狼にそんな感情があるのかは不明だが、僕の目にはそう映った。



「……あのクソ生意気な弟によ」


「泰虎?」


「おー。あいつによく、死んだみたいに生きて意味あんのかとか言われてたんだけど」


「ああ……それ、僕も言われたな」



 泰虎はきっと、もどかしかったのだろう。

 泰虎からすれば、僕や司狼はたしかに死んだように生きていて、ムダな時間を過ごしているように見えていたのだ。



「別に俺は死んだつもりはなかったけど、かと言って生きようとしてたわけでもねぇから、まあそんな的外れではないなと思ったんだわ。生きてる実感がないなら、死んでるのと変わらねぇのかもなってな」


「うん」


「んで、それは虹。お前も同じだと思ってたんだよ。まったく一緒ってわけじゃねぇだろうけど、かなり似てるとこにいるんじゃねぇかなと。でも——」



 司狼の言葉が途切れる。

 夜の名残が一気に光にのまれていく。朝だ。朝が来た。

 水平線の上から、世界を真っ白に染め上げるような強い閃光が走った。あまりにも眩しく、焼き尽くされるのではないかというくらい激しい光。

 いつかの司狼の言葉を思い出す。


『生き返ったような気になるんだわ。で、ああ、俺って生きてたんだなーって思うわけ』

 

 日の出をそう表現した司狼は正しかった。

 ほんの一瞬、一日のうちの限りなく短い時間だが、眩い光にはそういう生を感じさせる圧倒的なパワーがあった。

 優しさや温かさとはちがう。生きろ、と訴えかけてくるような輝きに、体にまとわりつくあらゆる憂いが剥がれていくのを感じた。



「お前は俺とはちがった」



 司狼が再び口を開く。

 朝日を浴びて金色の髪を白く輝かせた司狼は、日の出ではなく僕を見ていた。



「お前は死んでたんじゃなく、いまやっと生まれたんだろうな」



 ピッと司狼が指さしたのは、僕の腕だった。

 傷が癒え、包帯の消えた僕の腕だが、いくつもの痕はおそらく消えることはないだろう。



「これでお互い、約束は守ったな」



 新しい約束は必要ない。とは、僕も司狼も口にはしなかったが、きっとお互いわかっていた。

 僕らは太陽が海から飛び立つまで、ただ並んで目の前の景色を眺め続けていた。



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