第26話 不穏

アヤメの困ったような表情を見てまだ何か言いたそうに口を開きかけたが結局それ以上言及せず、不機嫌な顔で切り出した。


「あいつ、今夜にでも自分で動き出しそうだぜ」


紫苑が何を指しているかすぐに理解した月は表情を引き締めた。


空木のことである。


アヤメが首を傾げ、何故紫苑が知っているのかと事情を尋ねると、眠っている状態にあるアヤメから離れられない月がまた何かしてくるかもしれないと踏んで紫苑に空木の監視を頼んでいたのだ。


「一度失敗したから下手に動かないとは思ったんだけどな」


「思ったよりも早かったですね」


「…何故だ」


軽率すぎる。いくつもの戦場で白星をあげてきた者の行動とは思えない愚行だった。想像するに、代わりに計画を実行する者を見つけられなかったのだろう。

だからといって、将自ら動くなど捨て身になっているとしか思えない。


――しかしこちらとしては好都合。面倒な過程は省かれた。


「で、どうする」


紫苑の目は爛々と輝いている。

その好戦的な態度にへにゃりと眉を下げ、アヤメは頭を横に振った。


「見に行くだけだ。…何も空木と戦うわけじゃない。地の利はこっちに分があるんだ。まずは隠れてあっちの出方を見よう」


「変装は…しなくて良いですね」


「ああ」


顔が割れているため、変装に意味はないだろう。

それに…


「本人が出てくるなら。そのまま正体を現したほうが抑止力になる」


何を企んでいるのかは不明だが、複数の人間がいれば下手に強行することはないだろう。こちらには疚しいところはないのだから、もし有事の際には立場を表したほうが向こうが逃れることができないと思ったのだ。


…とはいえ、役職的には向こうのほうが上なのでそれもどこまで通用するかわからないが…。


「まさか、あなたも一緒に来るつもりですか?」


ちょっと嫌そうに眉を潜める月に紫苑がハンと鼻で笑う。


「それはな、お前よりも役に立つからだよ」


「…」


何も言わずに鞘から剣を抜こうとする月に対して紫苑は不敵に笑ってこちらは鯉口を切ろうとしていた。

再び始まった一触即発の空気にアヤメは何回目かの「やめろ」と言って溜息を吐いた。


「紫苑は精霊が見えるんだよ…」


「は?」


珍しく、ちょっとびっくりしているみたいに目を丸くして月はアヤメと紫苑の両方を見た。


「精霊使いなんですか…?」


鸚鵡返しをする月にアヤメはこくりと頷く。

すると、今度は本当に驚いたらしく唖然として口元に握った拳を持っていくと唸るように呟いた。


「それって…かなり珍しいことですよ」


「あいつらほんと疲れるからあんま見えても良いことないけど」


さらりと返す紫苑に月は絶句した。


紫苑の目は識眼という。普通の人間には見ることのできない精霊が見えたり、霊気の機微でさえも見ることができるものだ。


驚いて言葉を失っていた月だったが、しばらくすると何か気がついたようにアヤメに勢いよく目を向けた。


「まさか…あなたも識眼を持っているとか言い出さないでしょうね」


「いやいやいや持ってないから。僕は丸きり一般人だから」


「あ、やべ…」


二人の会話を遮り、突然焦ったように紫苑が呟く。


「空木、動き始めたって」


「っ早いな~~」


視線を何もない空に彷徨わせ、何かを聞き取るように頷くと、徐々に紫苑の顔がひきつっていった。


「まずいな…ローが…」


「…行こう!」


慌てて腰を浮かせ寝台から飛び出す。


空木は魔術の玄人ではない。自身で術式を完成させ、発動させるとなると何度も失敗し相当な時間がかかるに違いない。しかも成功させるとなるとかなりの労力が必要だ。


それでも殊更に焦るのは、空木の魔術を心配してではなかった。空木の安否を心配してだった。


森にはあの狼がいる。


森を守り、慈しみ、汚す者を絶対に許さないあの狼が。


執務室を出て、日が傾き茜色に照らされる白杏の道を急ぎ駆け抜ける。

白杏全てを覆いつくす墨色の夜がすぐそこまで迫っていた。

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