第4話 白杏
浮遊する。
ふわりと体が宙を舞い、自由がきかない。
どこを漂っているのだろう。
目を瞑っているはずなのに景色が見える。
耳には微かな笑い声が。
(アヤメ―――)
低い。
この声は兄上だ。
(アヤメ)
唇が薄く開く。聞こえない。笑い声が邪魔をしている。
何を言っているかわからず、焦れったい思いでアヤメは必死に手を伸ばす。
目の下に刻まれた傷。
痛そうだな、と思った。
(アヤメ)
聞こえない。
大きくなる笑い声。
何を言ってるの―――
ハッ、と急速に意識が浮上する。
アヤメはベッドから飛び起きた。着崩れた夜着をそのままに、慣れない気配を肌に感じ、ひやりとした床に裸足で降りる。
窓の外はまだ薄暗い。
――廊下から誰か近づいてくる。
薄いカーテンから微かに漏れ出る光を頼りに、壁に掛けられた剣を静かに外す。
コツ…コツ…
足音に注意しながらアヤメは扉に素早く駆け寄った。座り込み、耳をそばたてる。
硬い、上質な皮製品の靴音。
身長は高め、訓練されているのか左右の体重のかけ方は均等になっている。
その割に、不躾…えらく尊大な足音である。恐らく、本人の意識に関わらず自然と訓練されたものが出ているのだろう。
誰だ…
手元の剣と呼吸を静かに同調させる。
コツ…
扉の前で足音が止む。
……あー…
アヤメは、そこではたと違和感に気が付いた。
近づいてからわかった。
この気配は、
コン コン
「おはようございます。――起きてらっしゃいますか?」
やはり、と解かれた緊張にアヤメはうなだれる。
…月だ
「あー…今、目が覚めた」
アヤメの気の抜けたような声音に、扉の外で部下が静かに嘆息したのがわかった。
***
「今朝はずいぶんと寝惚けてらっしゃったようですね」
さらっと嫌味を言われながら出された茶をアヤメは苦い表情で黙って啜った。
副音声で『馬鹿』『間抜け』『長たるものが何たる醜態』と聞こえてくるのは気のせいか。
白杏の中央には、属長執務専用の
全体的にこぢんまりとした造りとなっているそれは、東西南北に棟が分かれ、それぞれ主に属長と側近居住区のある東棟、資料保管庫のある北棟、住民集会や会議のための南棟、賓客をもてなすための施設のある西棟と役割がある。
4棟はそれぞれ連結しており、中央には特別な行事や式典が行われる施設があり、成人の儀や収穫を祈るための祭祀行事なども唐桃で行われた。
村の外れで隠居人のようにひっそりと暮らしていたアヤメにとって、他人の気配を感じながらの公と私の境ない生活はなかなかに苦行だった。
慣れることができず、耐えきれなくなっては部屋を抜け出し森に引きこもり、そのたび立浪から引っ立てられて渋々と帰ってきていた。
しかし、この部下が着任してからは、アヤメの一挙一動、それこそ眼球の動きまで全てを監視しているのではないかと思う程に隙なく見張られている。
今になって初めて、今までは幼馴染の優しさ故のお目こぼしがあったのだと理解し、ちょっと泣けた。
(この目が少しでも逸れることがあったらな)
書類を読み込む振りをして、ちらりと月に視線を向ける。
目の前で威圧感たっぷりにアヤメを見下ろすのは、つい先日臨時で派遣されたばかりの男――名を月という。
よく鍛錬しているのだろう、服の上からでも十分にわかる鍛え上げられた体躯に、その顔立ちは端正で、すっきりと通った鼻梁と見る者を惹きつける力強い深紅の瞳はまるで著名な彫刻師が生涯をかけて製作した彫像のようである。
その上、知的さを匂わせる銀縁の眼鏡なんてかけている、これを色男と言わずに何と言おう。
居た堪れない。自分とは何もかも違いすぎる部下からの苛烈極まる視線にスッと顔を逸らし、目の前の書類に没頭する振りをした。
このままねちねちと小言を言われ続けるくらいだったら、飽きやすい事務処理に没頭していたほうが幾分かマシだった。
(逃げたら殺されそう…)
仮にも上司に、と権力を笠に着るつもりはないが、思わずそう思ってしまうほどに物騒な目だ。
兄上か…?
身に覚えのない恨みを買っている場合は、大抵兄である藤馬が関わっている。
昔から何かと目立つ藤馬は揉め事にも巻き込まれやすく、そのとばっちりをアヤメも受けることが多かった。
誰に対しても揺らぎのない態度を取る藤馬は尊敬の眼差しを浴びる反面、妬まれやすい。
一時期は、逆恨みから妹である自分までも攻撃対象となり夜道で襲われることも少なくなかったために、必死になって武術の修練に励んできた。文字通り血反吐を吐きながら。
息苦しさを感じる中、アヤメは視線を彷徨わせ、心の平穏を求めて執務机の端に刻まれた細工に目を遣った。
そこには、小さくふわりと膨らんだ花弁が慎ましくあしらわれている。
唐桃の随所に見られる杏の花模様。
その繊細な意匠は美しく清廉で、見るたびに生まれ育った森を思い出した。
書類仕事に四苦八苦する連日の中で、執務室の装飾が気詰まりしないというのは、せめてもの救いだった。
もともと部屋に籠もって筆をとるより、外に出て体を動かしている方が性に合っているのだが、何でも屋の長にそのような時間があるはずがない。
就任してからは、日々回ってくる細々とした雑用や、慣れない書類仕事をぐったりとしながら片付けていく毎日だ。
今の時期、冬を耐えた蛹は羽化し、蝶となって生を歌い、母鹿は出産に向けて栄養を蓄え、産まれた子鹿は母鹿の跡をついて回りながら蝶を追い、その子鹿の足元には菫がひっそりと花を咲かせ、その爽やかな香りは楚々と森に冷涼を届けるのだろう。
菫の花をよく砂糖漬けにして食べたものだ、と頬杖をつきながら遠い目をして故郷の森に思いを馳せていると、「仕事しろ」と容赦ない叱責が飛んできた。
この色男は、早々に白杏に溶け込み、道を歩けば村の女性には親しく声をかけられ、昼のお茶にも誘われるぐらいに人当たりが良い。
しかし、それはアヤメ以外に、の話だった。
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