第10話 紫苑
鐘の音が鳴り響く。
午後の授業の開始合図を知らせる鐘は、中庭で遊んでいた子どもたちを教室へと急がせた。
教室までめいっぱい駈けていく、元気に溢れた子どもたちの姿にアヤメは目元が和らぐのを感じつつ、それに比べて…と隣にいる人物を盗み見る。
運動とは無縁だろう肥えた腹に、まるまると肉のついた顔。
過去、その類稀なる武術センスから数々の武勲をたて、栄誉を讃えられてきたこの男は、今の地位を築きあげるためのここ数年ですっかり見る影もなくなってしまった。
『豚』
兄が呼んでいた理由もすんなり納得できるその図体から出る汗をひとしきり拭いた空木は、アヤメに問い掛ける。
「小さな子どももいるようだが、ここは中等部ではないのかね?」
もっともな質問に、にこやかに笑ったアヤメは中庭をぐるりと囲むようにして建てられた建物の一階にあたる部分に指を差し、説明し始めた。
「一階が初等部、二階が中等部となっています。
先ほどご紹介したところは初等部の組ですね。中等部を卒業してから更に勉学に励みたい者は白杏を出て春蘭に行きます。
最近は家業を継ぐ者は最近では僅かしかいませんね。
白杏は人口が少ないために学院が一つで事足ります。教えていることは中央と同じく、読み書き計算に、歴史、体術、剣術などの基本的なことです」
緩慢に頷く空木は、いかにも退屈そうだ。同意見だ。アヤメも退屈だった。
「中等部も見学なさいますか?」
尋ねながらも、頷くことはないだろうとアヤメはわかっていた。事務的な質問、所詮は社交辞令である。
予想通り、聞いているのか聞いていないのかわからない様子でうーんと、顎の髭を弄っている。
対するアヤメとしてもこれまた同意見だった。
慣れない笑顔を貼り付かせて、なんとか早くこの茶番を終わらせられないかと月にこっそり視線を送る。
縋る主の目に小さく嘆息してみせた月は、すい、と中庭に面している廊下に目を向けた。
そこには廊下を歩く小柄な青年の姿があった。
(なるほど…)
瞬時に意図していることがわかり月に笑いかけると、待っていたと言わんばかりに口を開いた。
「実は、ここの学院の杏の焼き菓子は白杏の名物でして」
月の言葉に、空木はわかりやすく反応した。空木は甘いものに目が無いことで有名だ。
アヤメもなるべく自然を装って後を繋げる。
「空木様、長旅でしたでしょう。僭越ながら、もし宜しければ本日の視察はここまでとして、甘い物でも如何ですか?―――紫苑!」
足早に歩き去ろうとする青年に呼び掛ける。
青年―――紫苑は足を止め、振り返った。
アヤメと月、そして空木の姿を目に入れた途端、遠目から見てもはっきりわかるように顔を顰めた。
しかしアヤメはそれに爽やかな笑顔を送る。心境としては、警戒心の強い野良猫を呼び寄せる感じだ。
だいぶ長い間こちらをじっと睨み付けたあと、諦めがついたのか不承不承といったように近づいてくる。
「紫苑」
アヤメよりも少し低い身長。
長い睫毛に縁取られている黒く大きな瞳は猫のようにつり上がっている。
小造りな顔にかかる黒い髪は、襟足近く、赤い紐で結ばれており、白い肌と合間ってよく似合っていた。
美青年という言葉より、美少年という言葉の方がぴったり合う。
「……」
挨拶も返さず眉間に皺を寄せ、口早に何事か呟いた。
アヤメはあえて愛想良く笑い、手招きをする。
紫苑は不機嫌を隠そうとしないままアヤメ達の傍に立った。
「空木様、彼はここの学院の教師の紫苑です。
紫苑、こちらは楽果陣軍事局局長の空木様だ」
「…どうも」
無愛想に挨拶する紫苑の姿を空木は物珍しそうに見た。
「随分とかわいらしい先生だね」
(…お、)
月が堪らず失笑する。
他人事のように振る舞う男に呆れたが、アヤメは叱咤することも面倒になりただ視線を空に遣った。
冬が訪れたのか。
温かな日差しで心地の良い温度を保っていたこの場が不用意な一言により一瞬にして冷点下まで下がった。
初対面にして一言目で紫苑の地雷を踏んだ空木にアヤメはある意味感動しながら横目で窺うと、紫苑が額に静かに青筋を立たせているのがわかった。
かわいい、幼い、小さい、容姿に関しての発言に紫苑は特に敏感だ。
禁句をやすやすと口にした空木にアヤメの背中に冷や汗が流れる。
「…ふ、」
紫苑が笑う。
ふわりと柔らかい、花が綻ぶように可憐な笑み。
それは空木の顔を赤らめさせ、やばいとアヤメの顔を青くさせた。
「テメ…」
それまで黙っていた月がサッと素早く紫苑の口を塞ぐ。
「むぐ」
押さえられた紫苑はそれ以上何も言えなかった。
「紫苑、空木様を食堂まで案内して差し上げてくれないかな。
杏の焼き菓子が食べたいんだが…今ごろ行っても多分、売り切れてる。紫苑の口利きでどうにかしてほしいんだ」
月の機転にアヤメは目線だけで褒め称えた。あのまま放っておいたら、いったいどんな罵詈雑言が飛び出していたかわからない。
「なに…」
手を振り払った紫苑が鬼の形相でアヤメたちを睨みつける。
アヤメはそれにニコニコと笑って返すしかなかった。
紫苑、これも仕事、仕事だよ。
思念が伝わるように必死で語りかける。
眉間の皺がみるみる深くなっていったが、何かを思ったらしく、アヤメを物騒な目つきのまま舌打ちすると、空木に向き直り仏頂面で促した。
「あ、ああ」
雰囲気にのまれ、空木が頷く。
返事を確認すると踵を返し、紫苑は荒い足取りで食堂のある建物へと歩いていった。その後を空木が緩慢な動作でついていった。
…あとが怖そうだ
引き吊った笑顔で見送りながら、アヤメは今後のことを思いたらりと落ちた汗を拭った。
「…あとが怖そうだ」
まったく同じことを考えていた月がぼそりと呟く。しかしその顔は自分は無関係であるという顔をしていて、どうやらこの件に関して全面的にアヤメに罪を押し付けているようだった。
…自分から唆したくせに
無責任な部下にどっちが上司なんだと呆れる。
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