第11話 菫

「こらぁ!」


 突然、高い声に咎められた。

 その声に聞き覚えのあるアヤメは、しまったと眉尻を下げて後ろを振り返った。

 そこには頬を膨らませる見知った顔があった。


 陶器のように白い肌に薄桃色の頬、ぱっちりとした二重瞼。藍色の服の胸元には、薄紫色の花が一輪飾られていた。


 初対面の人からは花の精と間違えられるほどの美少女である。


 その美少女の頬は花の精に似つかわしくないほどに膨れている。美人が怒ると怖いというが、この人物の場合、どんな表情をとってもどうしても可憐さが前に出てしまう。


 二つに縛った黒髪を揺らし、そっぽを向く。


「見られてましたか…」


「一部始終ね」


 言い逃れはできないらしい。

大きな目でじろりと見上げられてアヤメは降参のポーズを取る。


「参りました」


 思わず苦笑いになっていると様子を見守っていた月が動いた。

 少女の前で踵を揃えると、握ったこぶし同士を合わせ、軽く頭を下げる。


「こんにちは、菫さん」


「はい、こんにちは月くん」


 表情を一転させて月に朗らかに笑いかける菫に、アヤメは苦笑を深くする。


「言っておきますが、月も共犯ですよ」


「そうなの?」


「すみません」


 困ったという風に月は少し眉を下げて笑って謝る。

 …ずるい。こう素直に謝られては、まるでアヤメの往生際が悪いようである。実際そうなので、何も反論はできないが。


 上司を少しも気を遣う様子のない部下の横顔を睨み付ける。

 案の定、月に菫は怒った素振りもなく頷くと、そのままアヤメに向き直った。


「月くんはとても素直なので赦します。アヤメくんは…」


「釈放?」


「極刑です」


「些か罪が重すぎないですか…」


 小さな靴で少しだけ背伸びする。アヤメの首に細い腕をまわし、ぐい、と引き寄せると、その小さな唇をアヤメの頬に寄せてかわいらしい罰を与えた。


 急な展開に月は目を瞬かせ、アヤメは半眼している。


「次やったら、紫苑からもしてもらうからね」


 紫苑の姉、菫 齢29


 その美貌と無邪気さに誰もが30間近の女性だとは信じない。

 弟である紫苑と8つの息子と夫を目に入れても痛くないほどに溺愛している。


 武術の達人であり、各地で魔獣が人を襲った十年前の事件の際も逃げ腰になる民たちの中で勇敢に立ち向かい、何匹もの魔獣を撃退していった。


 慣れたアヤメは特に照れることもなく、巻き込まれつつある紫苑に冷静に同情した。


 2つ上の紫苑とアヤメは家が近所の幼なじみだ。アヤメが紫苑にちょっかいをかけ、菫が怒り、それにより紫苑にも何故かとばっちりがくるという図は、すでに昔からの決まりごととなっていた。


「それで、あれ空木でしょう」


 ちら、と先程空木と紫苑が消えていった食堂の方向を見遣り顔をしかめる。


「何しに来たの?記憶より更に太ってるけれど」


「あれ、お知り合いですか?」


「まあ、そうね。本当にただの知り合い程度よ」


 アヤメは初めて聞く意外な交友関係に目を丸くした。


「十年前に一度、一緒に魔獣を退治したことがあるっていうだけよ」


 ぶーちゃんめ…。的を射ているあだ名は、十年前の災害の際にはなかったものだ。

 空木の局長就任以降、変わり果てたかつての同僚に菫がつけたあだ名だった。


「表向きは各学院の視察と」


「ふうん、意外ねぇ」


 菫の反応ももっともである。


「元々自信過剰で自己防衛意識が強いやつだったけど、この頃はちょっと異常ね。どうしてあんなになっちゃったのかしら」


 頬に手をあて、菫がぼやく。珍しく、その瞳には翳りが写しだされている。

 元同僚の変貌振りに対して複雑だろう菫の心中にアヤメが黙っていると、空白を埋めるかのように月が口を開いた。


「そういえば、菫さんは何故ここに?」


「あっ」


小さな体がぴょこんと跳ねる。


「そうだ、棗くんにお弁当届けにきたんだった」


「愛妻弁当ですか。棗さんが羨ましい」


「彼、今日は視察に人が来るんだーって張り切ってたからね」


 はーい、と元気良く手をあげ、菫はそのままくるりと二人に背を向け、駆け出した。


「二人とも、仲良くね」


 建物まで走っていく天真爛漫なその背にアヤメは手を振った。


「紫苑によろしく」


 今ごろは食堂で静かに怒っているだろう様がありありと浮かぶ。だって、面倒なものは面倒だ。堂々と主張するアヤメは少しも反省の色を見せることはなく、涼やかに菫を見送った。


 二人きりになった中庭に子どもたちの笑い声が風に乗って響きわたる。一仕事終わった気分になりアヤメが伸びをすると、食堂からであろう、食材を炒めた香ばしい匂いが鼻を擽った。

 

 ついで、くう、と鳴った間の抜けた音に、月は眼鏡を押し上げながら応じた。


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