第44話 回想

冷たく湿った土が足の裏に柔らかくこびりつく。

昨晩は雨だった。

枝葉に遮られて光が差し込まないこのあたりは、ぬかるみ、まだ雨の名残を感じさせる。

紫苑は小さな鼻先を上に向けスンと吸った。


血の臭いは流されてしまったのか、嗅覚を研ぎ澄ませても何も嗅ぎ取れない。

耳元で騒ぐ精霊の声だけが唯一、紫苑の行く先に目的のものがあることを確かにさせている。


速度を緩めないまま、紫苑は自分の後方に少しばかり意識を遣った。

音は二人。わかりやすく、一定の距離を保って自分を尾けている者たちがいる。

気配を消していなかった。

帰る方角とは別へ進んでいることに対する圧力のつもりなのか。


紫苑は特に気にせず、精霊たちが誘う先へ進んでいった。視界が今より暗くなれば、探索には不向きだ。日が傾く前に目的地まで辿りつきたかった。


精霊たちが案内している場所は、アヤメたちが進んでいる場所とは真反対だ。

死体があるということは、恐らく話にあった獣狩りの最中に襲われたという男のことだろうと予想をつけているが、そうなると、襲われた場所と違った場所へ下野たちが隊を進めていることが妙だった。


襲撃場所が一番飛竜が現れる可能性が高いと思うが、周りの連中にしろ、いくらなんでも自分たちが獣狩りしていた付近くらいわかるだろう…


紫苑の好奇心がむくむくと沸き上がる。


もともと、催事が少ない平和な白杏である。普段は修練に明け暮れ教師の生業に勤しむ紫苑は、そんな何の変哲もない日常を好みつつも、退屈していたところだった。


正解だったな、と誰に言うでもなく心の中で独り言ちる。

自覚はないだろうが、アヤメは何かにつけ変わった出来事を引き寄せる体質だ。


お互いまだ十にも満たない頃、アヤメは白杏の森で兄と共に生活していた。いつからそうしていたのかは本人も曖昧であることから、物心ついていない頃から森に住んでいたのだろうことが察せられる。


精霊に呼ばれて森に足を踏み入れた紫苑は、アヤメとの出会いに衝撃を受けた。


海から引き揚げたばかりの真珠…


目映い、一目見たら忘れられない、滑らかな光沢が揺蕩う白金の髪。

金を溶かして煮詰めたかごとく、美しく光る琥珀の瞳。

そしてそんな派手な風貌に似合わないーー全てに執着を失くしたような虚ろな表情。


どこか眠たげに半分程閉じている瞼は、目の前に突如現れた紫苑にさえはっきり見開かれることはなかった。

自分の容姿も中々に目を惹くものがあると自覚しているが、少女の端正な顔立ちもまた自分とは違う不思議な魅力があった。研ぎ澄まされていて繊細な印象も受けるのに、動物的な荒っぽさもある。子どもながらに甘い色気を纏っている奴だと思った。


―ー危なっかしいな


無防備すぎる。恐らく自分の容姿に頓着していないのだろうが、ひょろひょろの体に薄い衣を肩にかけているのも何ともアンバランスで、人街に出ればたちまち人攫いに合いそうな風体だった。


興味津々で見詰める紫苑に対して、アヤメの反応は素っ気ないものだった。

欠片もこちらに興味がない。子どもらしからぬ昏く澱んだ瞳に自分の呆けた姿が映り込んでいたのを憶えている。


自分よりも幼い子どもが、何故潜むような真似をしているのか


ーーきみのいしになるよ


精霊が歌うように甲高い音で紫苑に告げる。唐突に鳴った耳元の音を紫苑はうまく言葉に変換できなかった。意思?意志?脈絡がないのはいつものことだが、思い当たるものがなかった紫苑がどういう意味だと聞き返す前に、アヤメは身を翻して森の奥へと入ってしまった。それを追ってしまったため、結局今まで聞けずじまいだ。


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