第24話 蓋の開かない箱
――眩しい
アヤメは思わず目を細める。浮かんできた意識が最初に捉えたのは暮れ泥む夕焼けよりも濃い赤だった。溶かした鉄よりも熱く、宝石よりも煌めく、紅玉色。こんな色は他に見たことがない。珍しい色だ、そして、なんて高潔な…
―――綺麗…
息を呑む美しさに、ぼんやりと手を伸ばす。重い腕を持ち上げ、まだ意識が覚醒しきらないままにアヤメはそれに触れようとした。
「…?」
しかし、いくら掴んでもすり抜けていく。距離感を測り間違えているのか、アヤメの腕は空を切るばかりで望むものに届かなかった。あまりの手応えのなさにアヤメは不思議に思って首を傾げる。
「…アヤメ様?」
低い声。その心地良い声音に問われて、うんと首を捻る。
近づいてきたものを反射的に掴む。ふさっとした柔らかい感触。
しばらく手の中に入れたのものを揉んで、ぼんやりしていた。触り慣れた狼の毛に似ているようで、もっと細く柔らかい。
どこかで覚えがあるような…と記憶を辿って訝しんでいると次第にアヤメの意識がはっきりしていった。
「………わっ」
近い――
バチリと至近距離で合った視線の近さに驚いて大きく体を飛び上がらせた。
「っ……いっ…!」
飛び上がった勢いのまま、自分を覗き込んでいた男の額と派手にぶつかることとなり、目の前に火花が飛んだような錯覚を起こす。
頭の中を揺らす衝撃に唇を噛んで耐え、ぶつかった方向にアヤメが顔を向けると、そこには同じように頭を抱えた部下の姿があった。
慌てて周囲を見渡す。
そこでアヤメはようやく、自分が寝室にいることを理解した。
「…やっとお目覚めですか、姫君…」
「ごめん…」
どこか疲れたようは声音で軽口を言われてしまえば、全面的に自分が悪いのでただ謝ることしかできなかった。
申し訳無さそうに項垂れてると、スッとガタイの良い体が覆い被さりアヤメに大きな影を作る。差し迫る部下の秀麗な顔に「ちょっと」と腕を突っ張ねて抵抗しようとするも、うまく腕に力が入らないことにアヤメは気付いた。
「…あれ…?」
「あなた、丸1日半眠ってたんですよ」
アヤメの気の抜けた声に、暫く様子を見て気が済んだのか淡々と返事をし、月はあっさりと身をひいた。
「まる、1日…半?」
慌てて自分の体を改める。殴られた時にできただろう腫れた頬には薬を塗った湿布、服はいつのまにか夜着に替えさせられていた。掛布が薄らと覗く色は赤い。――夕焼けだろうか。先程寝惚けて掴もうとした赤はこんな色だったか、とぼんやりと思ったところで、気絶する前のことを思い出しアヤメは咄嗟に声を大きくした。
「視察は…!」
「大丈夫です。空木はまだ白杏にいます」
その一言にホッと胸を撫で下ろす。中央と白杏はあまりに遠すぎる。出来うるならば、空木が視察中に探りを入れて少しでも情報を得たかった。
まだ力が入り切らない体を起き上がらせ、背を壁にもたれさせる。長く寝ていたためか、若干のだるさが残っていた。
そんなアヤメの様子をちらりと見た月は何も言わず傍らの机に置かれた水差しから器に注ぎ勧めた。
「腹具合はどうですか?」
「少し」
「では、あとで何か持ってこさせましょう」
器を受け取り、水を口に含んでから思ったより喉が渇いていたのだと気が付いた。ゆっくりと体に染み渡っていくのがわかる。手足にもだんだんと力が込められるようになっていき、頭も冴えていった。
アヤメが水を飲み干したのを見届け、空になった器を受け取り元の場所に置く。一連の動作を見ていたアヤメは先程から月の様子がいつもと異なることに疑問を持った。常ならば説教されていてもおかしくない。
秀麗な横顔は平素と変わらぬように見えた。しかし、小言の一つも言わないところが気になる。
妙な気配に声をかけるべきか迷ってまごついていると、上司の動揺に気づいたのか、月は結んでいた口を徐に開け、しょうがないとでも言うような様子で視線を向けた。
「何をされたんですか」
あの時、と付け足された言葉にアヤメはぎくりとした。意識を失う前に受けた口付けの記憶が少しの熱を孕んで甦る。
…あの時って…
白檀の香り。眠りを誘う仄かな甘さとは真反対の濃密な口付けに体が縛られた。焦げ付く炎の瞳、伏せられた睫毛。息を吹き込まれるたびに体から力が抜けていくのに、追い討ちをかけるように戯れに熱い舌が口内で遊び、ますます体は言うことを聞かなくなった。
カッと頬が熱くなる。
そう、じゃなくて…!
雑念を払う。
「今は見たところ術をかけられているような気配はしませんが…、体の内側に根強く残ることもある。後々気が付けば厄介です」
冷静に問うてくる部下を前に、一瞬別のことに意識を向けてしまった自分を恥じる。
「それに、今後もし今回の術者と対峙することが出てきたら、術の性質を理解していないと対処の仕様もありません」
「そうだな」
アヤメは頬の熱さを無視して、神妙な顔で頷きを返した。
確かに物理的攻撃ではなく精神を直接攻撃してくる術は長く尾をひく事例が多い。
昔は術の効果を一過性のものだとし、後に苦しむのは術をかけられた者自身に心理的な負い目があるからだと考えられていたが、最近はそうではない。精神攻撃の術には、後に苦しむように相手の思考型に制御をつけ暗示をかけ、本人にもわからないように心理を操り、長期的に内側から人を破壊するといった種類があることが結論付けられている。
もっとも、その質の悪さからそういった類の術は禁術として指定されているが。
「あの時…」
そこでアヤメは言葉を切った。
ずしん、と重さを持ち、圧力をかけてくる何かが襲ってきたのだ。
答えようとして、どうしてか急に何も言うことができなくなった。
汗で首に張り付いた髪が、じっとりと先の言葉にまとわり付き、自分の唇を塞ぐ幻想を抱く。
アヤメは気が付いた。
どうして…
頭の奥で闇に塗り固められたようなものが邪魔をする。
水で潤したはずなのに、と渇く唇を動かす。
「何があったんですか」
重ねられた言葉に唇が震えた。
「わからない」
声が擦れる。
「わからない」
「わからないって…」
繰り返し、その先を紡ごうとして、渇いた舌が口の中で何の役目も果たさず死んでいくのを感じた。
黙り込むアヤメの横顔を月が静かに見つめる。探るような視線に居心地の悪さを感じて顔を上げると、何か思案しているのか眉を少し寄せて唐突に訊ねた。
「…藤馬様とはご兄妹なんですよね?」
「ああ」
思いもよらぬ質問に戸惑いながらも頷く。
「他に兄上は?」
「いないけど」
「では、あなたが『兄上』と呼ぶのは藤馬様だけなんですね?」
「……月、脈略がなくてわからない。いったい何なん…だ…」
すべて言い終わるより前に月が動いた。片膝を乗せ、寝台を小さく軋ませる。乗り出した体をアヤメに傾け間近に顔を寄せる。
その距離の近さにアヤメは身を固くした。先日のことが頭を過る。
どういう状況だ…
緊張する上司に対しても月は真面目な表情を崩さない。
鼻先が触れ合うほどの距離に端正な顔。替えのものを用意したのか眼鏡はもう割れていなかった。
思わず目を伏せる。あまりの近さに目のやり場がなく困惑していた。頭の中を占めるのは口付けられた記憶だ。
ゆっくりと唇が開かれる。
「…『兄上』と…」
「…え…?」
「あの時あなたは『やめて、兄上』と叫んでいました」
目を見開く。
「な……」
「どういうことでしょうね」
こっちが訊きたいと反射的に息を吸い込む。
しかし、言葉を発する前に遮るように二人の間を聞き慣れた声が割り込んだ。
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