第23話 まどろみの中で

赤い光が見える。

アヤメは懸命に走っていた。

四肢を振りちぎらんばかりに動かし、迫りくるものから必死に逃げていた。どろりとした闇。アヤメの小さな体にまとわりつき、前へ前へと進む体を邪魔する。少しでも止まれば捕らわれるに違いない。


とうとうばれてしまった。


琥珀色の瞳に涙を溜め、竦んで動けなくなりそうな手足を動かす。

ばれてしまった。

短くした髪も、男を真似た口調も、今となっては意味をなさなくなってしまった。


最初から無理なことだったのだ。


最初から真実を話していれば、母も自分も質素でも、慎ましやかに暮らしていけたかもしれないのに。


母の愛が、歪めさせてしまった。



赤い光がだんだんと大きくなってくる。

あの光にさえ辿り着けば。

本能的にアヤメは思った。あともう少しだ。もつれる足を速め、アヤメは暗闇を蹴った。


何かに首根を掴まれた。

真珠色の髪が絹の生糸を解いたように大きく乱れる。


アヤメの目が恐怖に染まり、逃れようと咄嗟に体を大きく動かす。


(いやだっ…!)


身をよじる。

しかし、力はゆるむことなく、アヤメの体はそのまま高く持ち上げられ、ふわりと宙に浮いた。


「カッ…!」


細い足は空を切り、バタバタと苦し気にもがく。酸欠の魚のように小さな唇はぱくぱくと開閉を繰り返し、首を締めるものを剥がそうとアヤメは掻き毟るものの、白い肌が赤く傷つくばかりだった。


高らかな哄笑。


その狂ったような声が、首を絞められることよりも何よりも恐ろしかった。


(兄上…!!)


誰よりもこの人が自分を憎んでいる。


だけれど、それも仕方がないこと。

不幸の元凶は自分なのだから。


背中が熱い。

憎悪で焼き焦がされていく。


胸の焔が小さく弱くなっていくのがわかる。


吐き出され続ける呪詛


耳を塞ぐこともできず、アヤメの意識は闇の奥深くに墜ちていった。








まどろむ。


自分の呼吸で目を覚ました。目蓋は重く、頭は鈍い。アヤメは夢と現つの間を行き来する感覚に浸りながら、ぼうと天井を見る。いつまた眠りに引き戻されるかもわからない。

どうして自分はここにいるのか。


体が温かく柔らかいものに包まれている。


思い出そうと、目を閉じて意識を深い闇に彷徨わせる。しかし、一光も射さず、静かな沈黙が漂うだけだった。


「…ははうえ、」


思いに任せて口から出した。

言葉は擦れていてみっともなかった。

母上。言葉が口の中で谺する。何を意味しているのか考えていると、その思考を遮るように頬がひやりとしたもので覆われた。


「忘れろ」


優しい声。

告げられると同時に、頬が冷たい温度で撫でられる。その冷たさが心地好くて自分からすり寄せると、応えるように額の髪を静かにかき上げられた。


薄らと目を開ける。


「アヤメ」


ああ、兄上だ。


仄かな灯りに照らされて見えた兄の姿にアヤメは安心したように息を漏らした。


瞼を震わせて、兄を見つめる。

項から首に沿うようにしてかかった髪は記憶より大分伸びている。厚い前髪から覗く瞳は昏く、感情が読めない。


「忘れろ」


促される言葉はの雨のように染み込んでいき、アヤメは抵抗することなくそれを受け入れ、目を閉じた。


「良い子だ」


いつのまにか背中の痛みは消えていた。

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