焔の子は花冠と舞う

@ikumori_ritsu

第1話 決意の森

 呼吸の音が聞こえる。

 それは森の寝息だ。息づく森がひっそりとたてる音。

 青く光る掛布を被せられ、動物達は皆一様に寝静まっていた。明日を生きるための力を体に蓄える。己が身を寄せる地は、寄る辺ないものであると本能的に理解している。何にも依られず、何にも依らずに生きるための力だ。

 当たり前のように依存し合って生きているのは人間だけか。


 アヤメは森の呼吸に合わせて息を吐いた。


 伸びすぎた前髪を鬱陶しそうに払い、羚のごとく軽やかな足取りで歩みを進めていく。


 月光を反射する白金の前髪からはちらりと濃い琥珀色が覗く。

 砂糖を煮詰めてできたかのようなその瞳は闇の中で煌煌と光り、森の気配を探っていた。


 月明かりは、遥か頭上に広がる豊かな樹木の葉に遮られ、僅かにしか届かない。幾重にも塗り重ねられた漆器のように深い闇は、己の指先でさえ眼前に翳さなければ見えない程だった。


 灯さえ持たず、脆弱なヒトの身一つで強大なこの地と相対する恐怖


 ――そして畏怖と敬意はアヤメが物心つく前からあったものだ。心の臓に深く刻み込まれたそれをアヤメは自然のものと受け入れ、心地良く思っていた。


 少し湿った風が頬の産毛を撫でる。きっと、夕暮れに降った白雨だろう。


 たっぷりと土へと染み込んだ雨を、根が吸い上げ、葉から気化し、森を潤した。

濃く豊潤な土の匂いに咽返りそうになりながらも清涼な空気を肺に入れる。

 決して人を受け入れているわけではないのに、気を抜けば心が吸い寄せられそうになってしまう。


 ――美しい地だ


 アヤメは己の住まうこの白杏の地を愛している。


 森林でほとんどが埋め尽くされるているこの地で、人は自然の恩恵を与って生活を営んでいる。自然によって生かされている命だという意識を持たない者は白杏に住む者の中には誰一人としていなかった。





 視界が開く。



 植物から隠されるように囲まれた森の中心には、不揃いに積み重なった巨大な岩が瓦解したように座していた。


 息を切らすことなく目的地にたどり着いたアヤメは、さてどうしたものかと一瞬思案したが、どうせ森に入った瞬間からすでに彼には気付かれているのだ。今更どうすることもできないだろうと腹を括り、足を踏み出した。


 堆く積まれた岩の最も高い位置にある隙間。一筋の光をも拒絶する暗闇の空間に、友は住んでいた。


 岩のくぼみに手を掛け、アヤメはするすると慣れた動作で岩を登っていき、穴の入り口まで辿り着くとひょいと隙間から中を覗きこんだ。


「ロー」


「遅い」


 暗闇の中で何かが輝いた。


「たわけ」


 いかにも不機嫌そうに低く唸る友に気づかれないよう苦笑する。


「待ってたわけでもないだろ」


「…この不作法者が」


 綺羅と、夜に慣れたアヤメの目に友の姿が眩しく刺さり、ゆるく片目を眇める。


 ――眩しい


 もう随分慣れたが、それでも出会った当時の衝撃は今もアヤメの記憶に鮮やかだ。


 銀色の毛並に大きな体躯。黒曜石をはめ込んだごとく光る右目。切創の痕がひきつり残った左目はかたく閉ざされている。


 ローと呼ばれたその狼は、射殺さんばかりの視線でアヤメを睨みつけた。


「光夜の前は必ず傍にいてくれと泣いて頼んできたのは貴様だろう」


「…ちょっと待って、大きな語弊がある」


「何が『調子が悪くなるから』だ。へらへらとふざけた面をしおって」


「これは地顔…」


 矢継ぎ早に悪態をつきながらも、先程から狼の鼻はひくひくと絶え間なく動いてアヤメの匂いを確認している。


 恐らく、体調を慮ってのことだ。言葉とは裏腹な行動が可笑しく、ついにアヤメは「ふ、」と苦笑を隠しきれなくなった。


「不愉快だ。…何を笑っている」


「優しいなぁと思って」


「フン…お前の歪んだ顔が見られる絶好の日を、俺が逃すわけなかろう」 


 含みを持った言葉にアヤメの動作が固まる。一瞬で表情が強張ったアヤメにローはニィと狼らしく獰猛に犬歯を現した。


「そうだ、お前が僕にヤサシイわけがなかった」


「俺が知らないとでも思ったか」


 唸るように喉を鳴らしてから、これから言う言葉が面白くてたまらないとばかりに言い放った。


「就任おめでとう、長サマ」



 ヒュオォと一匹と一人の間に冷たい風が吹き抜ける。



 若月のごとく細められた目には揶揄の色が含まれ…というより最早揶揄の色しかない。

飛ばされた髪の隙間からアヤメの顔が覗く。

少年――、いや、少女の顔は真顔だ。


「この土地で俺に隠し事しようなどとはな」


「こっち側のことに興味なんてないだろ」


「ああ、興味などない、が自然と耳に入ってくるんでな。俺の意思ではないさ。


 …大方今日は、就任式で荒んだ精神でも洗いにこようと思ったというところか。

 笑えるな、人嫌い」


 ピクリとアヤメの眉が上がる。睨めつけるが効果がある気は一切しなかった。


「別に、人が嫌いなわけじゃない。

 …僕はただ、日々穏やかに暮らしたいだけ…。

 そこまで喋っていて、僕がどうして君に知らせなかったかわからない…?

 もうその口を閉じていろ。昼間に食べた兎でも見えてきそうだ」


「そう言うな。まだ食べ足りないんだよ」


「怖い顔で僕を見るな」


 グルルと愉快気に喉で笑う狼の姿は草食動物を狩らんとする紛れもない肉食動物だ。

ストレス解消に来たはずが、長就任を故意に黙っていたことへの思わぬしっぺ返しを食らってしまった。


 ボロクソに攻撃されるが、隠していたことへの多少の負い目もあるため本気で反撃には転じれない。相手はその甘さもわかっているからこそ、二の矢三の矢をここぞとばかりに放った。


「それで?今回はどういう風の吹き回しだ」


 大方予想はつけているだろうに、意地悪くアヤメに問い掛けてくる。

 『人嫌い』とローが称する程、アヤメは人との関わりを不得手としていた。

 というより、幼少期より森で過ごしていたせいか、人間に興味が薄いのだ。


 …一部を除いて。


「正直僕には考えが及ばない。…あの人のことに関しては」


 どう答えるか少しの間迷い、結局は正直な気持ちを吐露した。


 アヤメが長になったのは実兄からの指示だった。理由はいまだに聞かされておらず、アヤメもあえて訊かずに従った。

 兄が言わないということは、自分は知る必要がないということだからだ。自分が知っておくべき情報は必ず伝えてくる人なので、とりあえずは自由にやっていいのだろうと思う。


 自分の命が今こうしてあるのは、兄のおかげなので、指示に従わない理由はない


『不断の努力をしろ』


 兄の口癖である。魔術において天賦の才を持つ兄にとって、欠点だらけの自分は見るに堪えないものなのだろう。


 齢15になった自分は、中央に出て専門学を追究する道ではなく、広大な白杏の森に同化し自然学を独自で研究する道を選んだ。


 そんな浮世離れした修行者のような生活を望んだ妹に、如何様な心情で長になれと声をかけたかは不明だ。ただ、兄として見てられなかったのだとアヤメは思う。


「まるで傀儡だな」


 言葉の厳しさとは裏腹に口調は静かだった。友の優しさに押し黙る。何と言われようと、兄との複雑な関係は変えられなかった。


 アヤメの住む洸国は一人の王によって統治されている。


 王は洸陣という主要地域に住み、王直属の部隊である親衛隊によって守られている。

 親衛隊の隊長は12人で構成され、王と洸陣を守る役目と各陣を動かす権利を持ち、アヤメが就任したのは、その各陣の下にある無数の領地のうちの一つ、白杏という属を治める長なのである。


 白杏は他の領地と比べ非常に人口が少ない。

 元々狭い領地の三分の二以上が森を占め、人の住める土地の狭さでは東の国で一、ニを争う程である。

 観光にも学問にも工業にも特化しているわけではない。農業と養蚕を生業とするこの村では、他に若者が出ていき、年々過疎化が進んでいる。


 長に就任したのも、先代からの推薦が最大の理由だった。決して人望が厚いからではなく、消去法によるものだったのだとアヤメは思っていた。いわゆる、誰かが引かなくてはならない貧乏くじを自分は引いたのだ。与えられる報酬も少なく、領地の便利屋のような存在に誰も進んではなりたくはない。


「これからはここに来る時間も減るだろうね」


「清々するわ。貴様が来たらまわりがうるさくて敵わん」


 ローが首を振って周りに視線を巡らせると、暗闇の中できゃらきゃらと高い音が鳴った。それは特別な目を持つ者にしか見えない森に棲む精霊の声である。


 アヤメを取り囲むようにして漂うそれらは、仄かに発光し喜びを歌うように音を出す。

 アヤメはその意味を理解することはできないが、光がふわふわと舞っているのはかろうじて見えるし、何となく音も聞こえる。


「寂しがるかなぁ」


「さあな」


「いや、ローが」


「ほざけ」


 にべもなく否定されるが、アヤメは気にせず狼に近づきごろんと傍で仰向けに寝転がった。


「腹を向けるとは良い度胸だな」


 呆れて呟く狼の言葉も意に介さず、代わりに大きな欠伸を一つ返した。このまま寝る気でいるらしい。


「…」


 堂々と無防備な腹を向けられて黙って何もせずにいるのも癪に思い、その腹に勢いよく前足をかけた。


「うっ」


「お前が長なんてな。やっていけるのか」


「ロー、お、重いから…」


「哀れ、狼に育てられた子は人間に勾引かされ爪は削がれ牙を抜かれ遂には飼い慣らされたか」


「嫌な言い方やめてよ…ぶっ」


 身を捩って前足を退かそうと奮闘していると、顔の上に毛の塊が降ってきた。ローの尻尾である。

 立派なそれは別段重くはないが呼吸がしにくい。地上で溺れそうになるという貴重な体験にアヤメは呻いた。


「いい加減やめてって…」


「フン」


 音をあげるアヤメに馬鹿にしたような笑いを一つ向ける。

 咳き込んでいると、今度は脇腹あたりに温かみを感じた。飽きたのか、ローが緩慢に掛けていた前足を退かしごろんと大きな体躯を丸めて眠りだしたのだ。


 でっかい犬だ…


 何かアヤメには聞こえない音が聞こえているのかぴくぴくと耳が動く。何となく、アヤメが耳の後ろを掻いてやると案外抵抗もされずそのまま受け入れられたので驚く。


「…しばらく会えないんだろう」


 低く、聴こえるか聴こえないかくらいの大きさでその言葉はアヤメの耳に届いた。


 たまらず首に抱きつく。


「調子に乗るな」


 素っ気なく返されるが、それにも構わずさらにきつく抱き締めた。抱きつかれるローも仕方ないと思ったのか、嘆息したきり拒絶の意思は見せてこなかった。


 ーー自分に何ができるんだろう


 ぼんやりと考える。

 兄のように器用なわけでも、何か人と比べて秀でたものを持っているわけでもない。


 ーーそれでも


 琥珀色の双眸の奥に揺曳する炎が現れる。

 この森を守ろう。そしてこの友を。それだけがアヤメの中で揺るがない思いだった。


 こぶしを握る。強く、強く。

 恩恵のような月光が少女を包む。


 母上…


 これから先、自分の為すべきことを為すことを、少女は少女の神に固く誓った。

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