第8話 そして彼らは東へ
すっかり物思いに耽ってしまっていたらしい。自分を呼ぶ声に、桂樹は視線だけを上げて相手を確認した。
「風邪をひくぞ」
長い袖を夜風に翻し、会議の疲れを微塵も感じさせない涼やかな態度で月は桂樹に近付いた。
春が訪れたばかりのこの国は大分暖かくなってきたとはいえ、夜はまだ冷える。
薄い布一枚しか着ていない桂樹は傍から見ると確かに寒々しい。
体の弱かった幼い頃の自分は季節の変わり目には必ずといって良い程体調を崩した。
その度に嬉々として世話をしていた月の様子を思い出し、鼻で笑う。いつからか寝込むことも咳き込むこともなくなった。
可愛げのない弟が熱を出すたびに自分に助けを求める姿がなくなったのが惜しいのだろう、欄干に凭れ、そのまま腰を上げようとしない桂樹に、月はこれ見よがしに嘆きだす。
「あーあ。小さい頃はあんなに聞き分けが良かったのに…。悪い子は鬼に攫われてしまうと本気で信じていたあの可愛い子はどこに行ってしまったんだ」
「おかけで今では立派な天の邪鬼に育ってますよ」
「どこぞの鬼に育てられたんだか」
「あんたは上手に角を隠してるもんだ」
呟いた言葉は、確実に相手に届いているはずなのに月は気にした風もなく、笑って桂樹の前にどっかとあぐらをかいた。
「おい」
「どうせ誰も見てやしない」
仕事は終わったと言わんばかりに、重い髪飾りを外し、垂らしていた髪を素早くまとめあげる。
えらく機嫌が良いらしい。鼻歌まで歌っている。
嫌な予感に、桂樹は眉を潜めた。こういう時は、ろくでもない時だと決まっている。
「桂樹、桂樹桂樹桂樹けーいじゅ」
「………」
無言で腰をあげる。
「まぁ待て、桂樹。楽しいことになったぞ」
「結構です」
ぴしゃりと跳ねのけ月の横を通りすぎようとすると、自分より少し背の低い体が阻んだ。
「そう急くなよ」
「あなたの言う楽しいは私にとって大概が害なので」
「そうだな。だがどっちにしろお前は嫌でも関わることになるよ」
「………」
「聞きたくなっただろう?」
桂樹がどれだけ怨を込めて睨んでも、月は笑うばかりで屁とも思っていないようだった。
良い性格である、という世間からの評は正しく当たっている。
実際誰よりもイイ性格をしていることを、桂樹はよく知っていた。
ニヤニヤと笑う月に辟易しながら、桂樹は固く目をつぶる。そうして開いた頃には月がいなくなっていれば良いと期待して片目を開けてちらりと伺うが、やはり変わらぬ位置に相手はいた。
「かわいいねぇ」
桂樹は薄く笑った。まったく、自分にではなくこの完璧な人に天恵を与えられているのだから、世の中不平等にできている。
赤い光彩の中に生まれる渦。天の息吹が閉じ込められている。
この瞳に桂樹は抗えない。
どんなことをしても、だ。
「桂樹」
名を呼ばれ、桂樹は仕方なく元の場所に腰を下ろした。
「すでに、東にある兵器の噂は知っているな」
「…あの戯言ですか」
「戯言ではない。――存在する、実際に」
桂樹は軽く目を見開く。
「馬鹿馬鹿しい。…確証は」
「ある。魂波で確かめた」
「この距離を寄せたのか?!」
敬語を使うことも忘れて、桂樹は身を乗り出した。
「返れなかったらどうするつもりだった…!」
「返れただろう。私が直接行くわけにも行くまい。やるしかなかった」
事も無げに返され、桂樹はきつく唇を噛む他なかった。事態が急を要することを覚ったからである。
魂波を寄せる―――
それは強引な魔術により自らの魂を切り取り、自分の脚では行くことのできない地へ赴かせることだった。
効力の強い魔術故に、限られた者しか使えない術であるが、失敗すると魂が身体に戻れなくなる極めて危険性の高いものだ。
「私が寄せることができたのは、表面的なところだけだ。だがあれは、ヤバイ。禍の種となる」
スッと桂樹の目が周囲の気配を探るように動く。
そうして息を吐き、腹に力を込めて口を開いた。
「知っている者の数は?」
「少し探らせてみたが、おそらくほとんどいない。東では、な」
「…?」
桂樹が訝し気に眉を潜める。
そんなはずはない。西ではすでに一部の権力者の間で噂されるほど知れ渡っているのだ。
それなのに、自分たちの土地にある強大な兵器を本人達は知らないという。
「誰かが故意に噂を流している…」
呟きに月が頷く。
「しかし、一体誰が何の目的で」
「こんな馬鹿みたいな噂を連中が素直に信じているからには、上だと考えるのが普通だろうな。奴ら、戦争したくてウズウズしてやがる」
「これ以上自分を肥やしたところで虚しいだけだろうに」
「なに、」
月の形の良い唇が悪辣に歪められる。
「たっぷり肥え太れば良いさ。あとで私がおいしく戴くからな」
「…腹を壊しても知りませんからね」
忠告と共に溜息を出しつつも、口元に薄く滲み出る笑みを隠すことはしなかった。
物資の不足、経済格差、貧困問題。この国では親のいない子どもの命よりも使いもせずに貯蔵庫の奥深く眠ったままの武器の方が価値が重い。
傲慢で、勝手な思惑が複雑に絡み合い、自分たちの手が静かに破滅への歯車を回していることも知らずに欲望のままに動き続ける。
どうしてこの国はここまで腐ってしまったのだろう。
桂樹は自分の発想に拳を握り締めた。
理由などいくらでもある。挙げればキリがない。
しかし、最大の悪は民全員の無知にあることだけは確実に言えることだった。
それは、自分も含めて。
「それで、俺はどうすれば?」
ザワリと、自分の中の獰猛な感情が蠢くのを感じた。
「お前ももう13だ」
月は『もう』という言い方をしたが、世間的には『まだ』と捉えられることを桂樹は重々わかっていた。どれだけ歯軋りしようがそれは変わらない。
ぎらつきを隠そうともしない少年の瞳に同じような顔をしている自分が映りこんだ。
「桂樹、東へ行け」
思わぬ言葉に息を止める。
桂樹の表情が微かに陰ったのを見て月はすかさず否定した。
「勘違いするな。お前を除け者にするつもりはない」
「では、どうして」
「ある人にお前を託す。そこで東のことを学べ。そして私の力となれ」
「…」
「私は洸陣へ行く。やることがあるからな」
「木蓮はどうするのですか」
「柳に任せる。あいつなら私より真面目にやってくれるだろう?」
柳というのは月の補佐のことである。実直すぎる性格を持つあの女性になら、確かに安心して木蓮を任せることができるだろう。
「しかし、東にはどうやって行くのです」
東と西の国境には王立軍が見張っており、自由に往来できないようになっている。王立軍を避けて通るには険しい山か流れの速い川のどちらか越えるか渡るかしかなく、ほぼ不可能と言われていた。
「大丈夫だ。ツテがあるからな」
「…どうせまた口説き落としたんでしょう」
「いや?同じ想いを分かち合った同士に頼んだだけだよ」
いったいどうやって王立軍を抱き込んだんだか。
相変わらずの手腕に呆れるばかりだが、それに今まで幾度も助けられてきたのも事実なのでそれ以上の追及は避け、代わりに大きく頷いた。承諾の合図だ。
「わかりました。東へ行きます」
「そうこなくちゃな。素直な弟を持って嬉しいよ」
「その代わり、こうなったら必ず俺も最後まで混ぜてくださいよ」
「だから除け者にしないって。言っただろ?嫌でも関わることになるよ。…それに東も西もな」
さらりと言ってのける月の言葉ーー最後の部分に桂樹は僅かに瞳を眇めた。
「両方、ですか」
「恐らくな。東では手に負えないとわかったからこっちに噂を流してるんだろ。まあ単純に言ったら助けを求めてるんじゃないかな」
「…誰が」
「予想では、東だけで対処しようとして手遅れになる前に、先に西に情報を流してなんとか東に入り込める策を立てろってとこだな」
「誰がそんなことを考えているというんですか」
知らないところで大きなことが起ころうとしている。
予感に激情が迸りそうになる。それらを抑えた表情で問うと、月は目を細め一度喉奥でクッと笑ってから答えた。
「ーーーだよ」
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