第31話 兄妹
「あーあ」
低く、明るい声。
「惜しかったな」
この場に似つかわしくない声音が降って湧き、声の主を確かめる前に空木の体は地面へと沈められた。
「なっ」
首根を上からきつく押さえつけられ、足元しか視界に入れることができない。しかし、空木には誰が現れたか既に確信していた。
「…兄上…」
楽果陣という巨大な領地の陣長であり、政務局長として君臨する男。
美貌と言っていい。
決して女性的ではない、男性的な色を醸し出している顔立ちは、完成された美術品のようである。
甘い低い声は思わずどんな命令にも従ってしまうような蠱惑的な響きがあった。
その髪と目の色は、他者を寄せ付けない絶対王者、獅子のような金色。
青みがかった黒い隊服の胸元には局長の証である洸陣の金細工が飾られていた。
男は一見、穏やかな風貌であるにも関わらず、漂う威圧感はその場にいる者全員の動きを止めていた。
「全部詰めが甘いんだよな、お前」
楽しげに笑みを湛えながら地面に転がる空木に向けて言い放つ。
「…な…」
「空木殿、残念でした。ここで終わりです」
役者のような大仰な身振りで手を叩く。
すると、空木を捕らえていた男が静かに紙を空木の額に当てた。
「ぐっ…」
一瞬で目、腕、足が術式の書かれた布で拘束される。
藤馬はそんな足元で地を這う男を鼻で笑うと、静かに厳かな口調で言い放った。
「魔術規定を著しく逸脱する禁術の開発、使用容疑、特殊指定精霊への暴行未遂、自陣政務局長への脅迫、 収賄容疑、
ーーこれら洸法に則り、貴殿を拘束、連行させてもらう」
空木が大きく歯軋りをする。
「貴様あ…!!」
「おっとこわいこわい。ああ、あと殺人容疑もな」
「ふざけるな!貴様にそんな権限などないはずだ…!」
「ところが王立軍から既に許可を貰ってるんでね。
位は戴暉。冠するは紅玉。
…聞いたことぐらいはあるだろ?
王立軍、桂樹隊長の名を」
は…、と驚愕に二度三度、空木の口が開閉した。
「そんな…まさか…何故、た、戴暉が…」
「同じ陣長として貴殿の行動は目に余りすぎる」
ちょっと困ったように眉を下げた藤馬は笑いながら、驚いたままの空木に近づいていった。
「ーー下衆が」
吐き捨て、地に伏す空木の横面を前触れもなく蹴り飛ばす。
「グッ…」
何の躊躇いもない暴力に空木の首は千切れんばかりに伸び、口から血が飛び散った。
「一度しか言わないからよく聞いておけよ」
その声はとんでもなく優しい。
出来の悪い子どもを諭すように柔らかく語りかける。しかしその表情は刃向かうことを許さない絶対零度の冷たさである。
「俺の」
呻く空木の頭を踏みつける。
「妹に」
声色とは裏腹にその表情は至極淡々としており、前髪から覗く金色の瞳は自分の足の下で土を舐める男に何の関心も抱いていないようだった。
ただ、目の前に塵があったから棄てる。そんな当たり前のことをしているかのように、容赦なく空木の頭に体重をかけていった。
「二度と手を出すな」
みしり、と頭蓋骨が軋む音に紫苑は青ざめる。
「こわくってさ、加減できなくなるんだよ。でもまあ仕様がないよな」
沈黙する男に気付いたらしく小首を傾げる。
「これは正当防衛だよ」
苦悶の声をあげていた空木はいつの間にかピクリとも動かなくなり、土に顔を押し付けられたまま意識をとっくに失っているようだった。
「しぶといかと思ったら、意外と耐え性がないな」
はぁ、と嘆息しながら足を退かした。
「咲良、連れてって良いよ」
「…はい」
それきり興味が失せたのか、部下に短く告げると担ぎ上げられる空木にそれ以上目もくれず、立ち尽くす妹に視線を向けた。
「アヤメ」
のしかかっていた重圧が消える。
先程とは打って変わった優しい声音。
藤馬は笑顔を作り、アヤメに向かって腕を広げた。
「おいで」
その一言でアヤメの体は糸が切れたように前のめりに崩れた。地面に倒れこみそうになるのを藤馬が受け止める。
「兄上…」
「相変わらずだねぇ、お前も」
スッと、手のひらをアヤメの肩ーー傷口に翳す。その甲には幾重にも円が重なった模様が刻印されていた。
藤馬が軽く息を吸い、目を閉じる。
「な…」
その光景に紫苑は自分の目を疑った。
淡い光が傷口を包む。
アヤメは自分の体が仄かに温かくなるのを感じた。
気がつくと、先程までの痛みは和らぎ出血は止まっていた。
「とりあえず応急処置はしておいたから。唐桃に戻ったらすぐにちゃんと手当てはしなさい」
「はい」
「今のは…」
驚きに目を瞬かせる紫苑に月が嫌そうに舌打ちして答えた。
「あの人の特技ですよ」
「治癒か」
「治癒とは違うな」
そこで初めて藤馬は二人に目を向けた。
警戒心剥き出しの紫苑を茶化すように軽い態度で「よっ」と笑う。
「簡単に言うと再生だな。他にもまぁ、色々あるが」
なぁ、と寄り掛かる妹に言うが血の気の失せたアヤメは今にも気絶しそうなのか藤馬には何も返さずぐったりと項垂れる。
「これは駄目だな」
大して重そうにも感じていないようにひょいとアヤメを担ぎ上げる。
「軽いなぁ。紫苑、こいつにちゃんと食べさせてやらないと」
「俺はアヤメの女房じゃない!心配ならお前がこまめに帰ってくれば良いだろ!」
「あいにく暇じゃないんでな。ここから楽果までどれだけ距離があると思ってるんだ。ーーああ、そうそう月」
二人を置いて先を歩き出そうとしていた藤馬が思い出したように振り返る。
「唐桃に戻ったら今までの話聞かせてくれ」
有無を言わせぬ声音だった。
月は少し目元をきつくし頷いて短く応える。
それを見とめると楽しそうに笑いアヤメを担いだまま木々が織り成す闇の中へ消えて行った。
「……何だったんだ、あいつ」
「かき混ぜるだけかき混ぜて帰っていきましたね。
ーーーところでローは?」
「あ」
辺りを見回しても狼の姿はない。
「いつの間にいなくなったんだか…。ローはあいつのこと毛嫌いしてるからな」
「まあ、わからなくもないです」
「言うねぇ。上司なんだろ」
「…色々あるんですよ」
眼鏡を外し目頭を押さえてため息を吐くその姿に少しだけ、ほんの少しだけ紫苑は同情した。
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