第28話 傲慢の代償
「だっ誰だ!?」
誰もいない。
慌てて周囲を確認する空木を嘲笑うように、その声は今度は頭上からかけられた。
「なぁ、人間」
岩の隙間からギラリと凶暴な光が放たれた。
空木の目線の先に、一匹の狼がいた。
「…?」
空木は、自分の足が震えていることに気付いた。殺気。それも未だかつて感じたことのない獰猛な。
軽やかに、大木程も高さのある岩から狼がかけ降りる。
銀色の毛並に大きな体躯。黒曜石をはめ込んだごとく光る右目、ひきつった刀傷のある左目はかたく閉ざされている。
「殺されたいか」
吠えられたわけでもないのに空木の体がびくりと竦む。
なんだ…
突如現れた圧倒的な存在感を前に自然と息が荒くなる。弱者と強者。自分がこの場でどちらなのか、これまで幾つもの死線を潜ってきた空木は経験からすぐに理解した。死の恐怖が足元から頭の先まで空木の体をじわりと侵食しようとしていた。
狼は空木の前で悠然と立っているが、目は決して逸らさない。いつでも襲いかかることができるように。
「聞こえなかったか?ーー去れ、人間」
棒立ちとなっている空木に向かって森に入った異物を排除するかのように淡々と言い放つ。
しかし、空木の耳にはその言葉はほとんど入らず、頭を占めるのは『どうして』という疑問符ばかりであった。
事は単純なはずだった。
騒ぎを起こし、未熟な長に責任を取らせ、それをネタにあの生意気な男を静かにさせる。
アヤメの上司は空木である。
さすがに何もなしにアヤメを罰するこもはできないが、村全体を揺るがす大きな失態となれば空木は上司としてアヤメを査問にかけ、どうにでもすることができる。
さすがにあの冷酷無比な男でも実の弟のこととなれば違うだろう。
田舎育ちの若長はまさにうってつけの鴨だった。
それがどうして…
もう時間がない。
こちらの準備が整わないうちにあの男の手札が揃ってしまう。
不思議と、こんな状態にも関わらずどうにもならない怒りが込み上げてきた。
それは子どもの癇癪に近いものだった。
あと少し、あと少しなのに、どうしてこうも邪魔が入る。
くしゃりと、手のひらを握りしめると、紙が潰れる音がした。
「これは…」
手のひらの中の術式。
これさえあれば…
「貴様、何を…」
様子が変化した空木に狼がにじり寄る。
「来るなあ!!」
慌てて後ろに飛び退く。
狼狽する空木に狼が牙を剥き出した。術式は空木の恐怖に呼応するように反応し、禍々しい気配をあたりに漂わせ始めていた。
「来るなよ…!」
握りしめ、見せつけるように頭の上にかざす。
本来、魔術を発動させるには集中力が必要なはずだった。しかし、不思議なことに空木の手の中の術式は既に燐光を放っていた。
ゆっくりと後ずさる。
「…うまくいく…」
自分に言い聞かせるように空木はぽつりと言った。
あの男に対抗する手札を用意しなければ待ってるのは、破滅だ。
手が震える。
過去の栄光を取り戻すために。
国の兵力を維持するために。
憎い敵を失脚させるために。
10年前の事件と同じことが起きれば、民は目を覚まし、同時に自分の活躍の場も手に入れられるはずである。
大丈夫、大丈夫、
空木は願うように思い込んだ。
「忠告はしたぞ」
最後の宣告は不幸にも、焦燥に駆られた空木の耳には届かなかった。
ふっと風が通り過ぎる。
一凪ぎの風に我に返った空木がなんだ、と思っていると遅れて衝撃。
そして、全身が鳥肌立つような臭い嫌な匂いが突如鼻をついた。
「は…、」
バランスが取れなくなり、左側によろめく。
たたらを踏み、体勢を戻そうと体重を右にかけるがうまく力が入らない。
冷たい
そう感じ、己の体に視線を遣った。
あるはずの右手が、ない。
「ぎゃあああ!!」
ボトボトとおびただしい量の血が面白いほどに吹き上がり空木の腕を濡らす。そして、思い出したかのように遅い痛みと熱さが空木を襲った。
一瞬にして右手を噛みちぎった狼は心底嫌そうに地面に吐き捨てた。
「ゲテモノだな。草でも食んでいたほうが幾分かマシだ」
口元の銀の毛を真っ赤な血で汚し、泣き叫ぶ空木に冷ややかに言い放った。
「これで脅威はなくなったか?…さて、どうするか」
狼の呟きも空木には聞こえず、ただのたうち回っていた。
モノでも見るかのような視線を向けられながら空木の頭に浮かぶのは『どうして』という疑問。
こんなはずでなかった。
すべてがうまくいくはずだった。
それなのに今は自分の右手が、ない。
「あ…あ…」
排除する側ではなく、排除される側に自分は今立っている。
狼は只の獣ではなかった。
この、洸王を思わせる霊気。
『死』
自分はここで死ぬのだと確信した。
あの時逃げておくべきだったのだ。
後悔してももう遅い。
空木が小さく息を吸ったと同時に、鋼の如く凶暴な塊が牙を剥き空木に向かって飛んできた。
逃げなければ。
わかっているのにどうすることもできずその場に立ち尽くす。
空木は自分の人生が幕を閉じる瞬間をただ呆然と待っていた。
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