第16話 森にて2

ーーん?


ふと、その気配が喜ぶように沸き立つのが分かった。

もし空気に色があるとしたら、それは虹色。

華やかな光彩を放ち、あたりを賑わせる。


サク、と草を踏みしめる静かな足音がアヤメの傍で聞こえた。


「アヤメ」


瞼を開くと、そこにはまわりの景色を霞ませるような美少年が一人立っていた。


「…紫宛」


呼ばれた少年が麗しく微笑む。


「テメェ、この間はよくもやってくれたな」


天使のような笑みとは真反対の低く不機嫌な声にアヤメは背筋を凍らせた。


「いや、あれは僕のせいだけでは…」


「あの後俺がどんなクソみたいな時間を過ごしたと思ってやがる。ああ?」


「わ、悪かったって、ね?」


「ふざけんなコラ」


寝転ぶアヤメの頭を目掛けて躊躇無く足を落としてくる。それを寸でのところで避け、紫苑から距離をとった位置に腰を下ろすとチッと盛大な舌打ちが聞こえてきた。


「避けんじゃねえよ」


「いや、避けるでしょ普通」


「大丈夫だって。ほんのちょっと痛め付けるだけだから、おら、ツラ貸せツラ。踏んでやる」


「も、もっと理性的な話し合いをだな…今度胡桃亭の焼飯奢る!」


「てっめえ…!長の癖にしょぼいんだよ!」


「スープもつけるからっ…!」


「そういう問題じゃねー!」


黒い靴が鉛玉のように素早くアヤメの耳元を掠めていった。本気だ。本気で自分に蹴りを入れようとしている。その証拠に掠めただけでも耳たぶが火傷しそうな熱さになっている。

襲いかかる紫苑と必死に避けるアヤメ。

二人の間にもはや笑いはなく、お互い真剣な眼差しで対峙していた。


「貴様ら…じゃれ合うな」


「じゃれてねぇ!」


事の成り行きを傍観していたローだったが、紫苑が胸の合わせから符を取り出そうとした段階で自分の昼寝に支障が出ると思ったのか口を挟んできた。

『口を挟む』というのはその文字の通りだ。その大きな口を開け、怒りの頂点にある紫苑の頭をはむっと挟み悲壮感漂うアヤメから距離を取らせた。


「は!な!せ!」


抵抗する紫苑を無視し、自分の腹のあたりに移動させる。


「ロー!」


紫苑を宥めるように、たっぷりとふくよかな尻尾を目の前に持っていき鼻先をくすぐり、自分の体の方に引き寄せた。

体を丸め、鼻面を紫苑の肩に押し付けると座るように促す。


「…」


渋々腰を下ろした紫苑は非難を込めてローを睨む。


「黙って寝てろ」


しかしローの方はというとまったく気にならないようで再び眠る態勢を取り始めた。

そう言われてしまえば気が削がれてしまう。

紫苑は頭の後ろを荒っぽくかくと仕方なくローと同じようにごろんと地面に横になった。


そもそも森で喧嘩をすると、ロー以外にも煩く騒ぐものがいるのだ。

何気無く周りを見ると、精霊が興奮したように跳ねているのがわかった。精霊はもともと人の気性を敏感に感じ取る。これがもっとエスカレートすると周りの植物を無闇に成長させたり枯れさせたり、人に悪戯したりと厄介なことになるのだ。


二人ともそれがわかっているため、顔を見合わせ一旦休戦となった。何より、この森の主を怒らせたらどうしようもない。

ほっと胸を撫で下ろしたアヤメも紫苑に倣って仰向けに寝そべる。


「あのー、紫苑さん」


「…ああ?」


「剣聖の称号取ったんだって?」


「あー…、嫌々な」


「嫌々って…凄いことだと思うけど。えっと、大変おめでとうございます」


「おー」


「でもなんでまた急に」


「…チビたちが取れ取れって煩かったんだよ。俺は剣師のままで十分だって言ってんのに」


『剣聖』とは剣の腕前を表す称号で、剣の称号の中では最高位のものである。『剣師』はその五つほど下の位のもので、この称号を持つ者は徒弟を取れることになっている。


「自慢したかったんじゃない?『自分の先生はこんなに強いんだぞ』って」


「…かわいい奴らめ…」


「…あれ、」


紫苑が照れて顔をしかめた時、アヤメの目線の先、つまり澄み渡るような色の空にちょうど一羽の鳥が過った。

羽の先が茶色い。


考えるよりも先にアヤメの体は動いていた。

腹筋だけでひょいと起き上がった反動で一歩、二歩とそのまま大股で歩くと、手近な木の幹に足を引っ掻けそのまま枝から枝へとするりするりと渡り上っていく。

ゆったりと泳ぐように飛行する鳥の後を気配を消し近づいた。


「…っと」


パッと鳥を捕まえる。

そして、枝のように細い足にくくりつけられた紙きれを手早くほどいた。


「……」


琥珀の目を細める。


「アヤメ、どうした」


ピイピイと警戒した鳴き声に紫苑の声が被さった。

答えずに、そのまま羽を傷付けないよう慎重に空に放した。


元通り、優雅に飛んでいく鳥を見遣り、その方向を観察した。

手の中に残った紙きれを無言で折り畳む。

訝し気な表情で降りてきたアヤメに紫苑がもう一度問いかけた。


「さっきの鳥がどうかしたか?」


「んー…」


何とも歯切れの悪いその返答に紫苑が眉を寄せる。


「まだなんとも、ちょっと言えない」


「…厄介そうだったら言えよ」


一応声をかけるが、返ってくるのは生返事だけであまり耳に届いていないことは明らかだった。

紫苑にしてみても、慣れたもので早々に話に見切りをつけると、大きな欠伸をこぼし、また昼寝の姿勢を取った。

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