第18話 仮面の女
リィン…
重なった光の輪が照らしだす。
闇に紛れるような濃紺な装束は、首もとから爪先までを隠し、首と腰には幾重にも紐が巻き付いてある。ぴっちりと覆われている体はしなやかであり、女であることがわかった。
そして何よりも目をひくのが、首から上を全て覆った仮面である。
白い、陶磁器のようにツルリとしたお面。満足気に微笑む顔は何事にも憂いを感じることのないような笑みである。目を凝らすと、ゆるく湾曲した黄色い花弁が目元に一つ。
月明かりに照らされて、突然現れた襲撃者。
―――人間…なのか…。
空気が澄む。
その神秘的な光景を男は食い入るように見つめた。
「ヒッ…、わああッ!」
悲鳴とも怒声とも判断のつかない声があがり、護衛の最後の一人が仮面の女に突進していく。仮面の女はそれに怯むことなく向けられた剣をひらりと避けると、そのまま足を払った。
無様に背中からこける護衛の胸に手にしていた剣の柄を勢い良く叩きつけ、地面に沈めた。
―――これは、
肌が粟立つ。
恐怖ではない、歓喜ゆえに。
動くごとに絹糸のように揺れる漆黒の髪。月光のせいなのか、光の加減で銀色にも見え、ちらちらと散る様は美しい。微塵の無駄もなく、流れるように動くその肢体は野生に生きる動物を感じさせた。
覆われていない首筋やうなじの白さ。闇夜に隠すことができないその肌が見え隠れするたびに、劣情が沸き起こった。
女に誘われているかのような甘美な色気にあてられる。
―――私と同じ、天に選ばれた者だ。
ようやく見つけた。
知らず、男は体を熱くさせていた。
森に入ってきた時から襲っていた寒気は今やどこかに消え去り、身体中が熱く、たぎっていた。
瞼を大きく開き、眼球をぎょろつかせる。
「…欲しい…」
無意識に声が出ているのさえ気付かず、男は襲撃者に見入る。
こんなにも欲しいと思ったものは今までに無かった。
学院でありとあらゆるものに触れた毎日でさえ、強く興味を示すものはなかった。
自分と同等の者だ。こ奴こそ、私に相応しい。
呟きが聞こえたのだろう。
護衛に向けていた仮面を男に向け、ゆるりと首を傾げる。
その仕草に、案外この襲撃者は幼いのかもしれないと思った。
それも一興。堪え切れずに笑い声が漏れる。若い肉体をいたぶってみるのも面白い。幼い心は壊れやすくあるものだ。屈強な体に繊細な精神を持つその脆さを突いてやろう。そして、自分の思うままに変貌させてやろう。
誰にも感じたことのない激しい感情、初恋というにはあまりに歪みすぎていた。
チャキリ…
鈍く光る剣を構える。
自分に向けられたソレに男はいよいよ興奮した。
金目のものを探る気配はない。恐らく相手の狙いは今自分の手の中にあるものだろう。
だとしたら、物取りの類ではなくこ奴はこの村の者、あるいは村の権力者に雇われた者だ。
容易く目星がつけられて男は上機嫌になる。
腰に手をあてゆっくり立ち上がる素振りを見せながら、腰布に潜ませてあった紙を密かに取り出す。
「随分な歓迎だな」
余裕であると伝わるようにわざと声を間延びさせる。
仮面の男は距離を取ったまま微動だにせず、剣を構え続けている。
「貴様が欲しいのはこれだろう?」
術式の書かれた紙をひらひらと揺らめかせる。
「これを渡す代わりに見逃してくれないか」
ほら、と相手を挑発する。
揺れる紙に動揺は見せない。警戒しているのだろうか。仮面の女はまったく距離を縮めることもなくその場に立ち続けている。
こちらの思うように近づいてはくれない。
しかし男はそれでも一向に構わなかった。
相手はもう、術式の範囲内に入っている。ここで重要なのは相手をここに引き留めることである。
「さあ、」
最後の詠唱を唱え終わろうとする。
―――早く、早く、早く…!!
仮面を剥ぎ取りたい。
苦悶する様を見てみたい。
そうだ、身動きが取れないように自由を奪って熱く昂ぶるモノを無理矢理押し込み、人間としての矜持を根こそぎ奪い取って、未知の体験をさせてやろう。
そうしたらどんな風に変わるだろうか。
男の目が輝いた。
「さあっ…!」
ドオンッ
「――ッ?!」
大地が大きく揺れる。
「なにッ!!!」
男が地響きによろめいた一瞬の隙に、手にしていた二つの紙が何者かによって奪い取られ、背中に衝撃が走った。
「がッ…!!!」
地に伏し倒れた男の頭を押さえ付ける強い力。自分が誰かに踏まれていると最初はわからなかった。気付いた途端、一気に頭に血が昇る。しかしめり込まされているために歯を食い縛るのが精一杯で悪態を吐くこともできない。
―――新手だと…!
明らかにあの仮面の女によるものではない襲撃に男の顔が歪む。邪魔をされた。
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる。
怒りに歪んだ顔で、相手を捉えようと瞳を動かすが、見えるのはただただ土ばかりでそれも叶わない。
分が悪い―――。
そう判断した男は、奥歯に挟んだ術式を噛み砕き脳内で叫んだ。
『遁ッ…!』
途端、自分の体が凄まじい力でひっぱりあげられ吸収されていくのを感じる。消えゆく視界の隅に仮面の女を捉えた。月光の下に晒された肢体は何者にも汚されぬような美しさがある。
そう、美しい。
暴いてみたかったが、しょうがない。次回に期待するとしよう。
男は決して仮面の女を諦めるつもりはなかった。
必ず自分のものにしてみせる。必ず。これはきっと必然なのだ。
男は恋慕にも似た眼差しを仮面の女に向けると、そのまま夜の闇に吸い込まれていった。
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