第37話 藤馬と月

広い部屋の中、男が一人机に向かっていた。月が音をわざと大きくたてて入室したにも関わらず、男はちらりともこちらを見ず、灯りを頼りに書き物をしているようだった。


つかつかと大股で部屋の中へと進み、机の前に立って書類に大きな影を作ってやるがこれにも何の反応も示さない。


「おい」


「…ああ」


無言で天を仰ぐ。


この男はこうなると少し話しかけたくらいじゃろくに反応しなくなる。


自分から呼びつけたくせに…とさすがに半ば呆れながら月は面倒そうに視線を送り続ける。

暫くそうしたあと自分に意識を向けさせることに早々に見切りをつけた月は諦めてとりあえず大人しく待つことにした。

どっかりと部屋の中央にある布製の長椅子に座り込み、背凭れに身を預けて深く息を吐き出した。



* * *


「おい」


声をかけられて視線をあげた月は、目の前の男を確認して柳眉を潜めた。


「終わったのか」


「終わったのか終わってないのか…。

まだまだ片付けなければいけない案件は残ってるし、微妙なところだな」


「俺と似たような状況だな」


「珍しい。疲れてるのか」


「…お前もだろ、藤馬。どうせまた寝てないんだろう」


暗がりでよくわからないものの、藤馬の目が微かに充血していることが見て取れた。


「見ての通り、やることが山積みだからな」


軽く笑い、月の向かい側にある長椅子に浅く腰かける。


「藤馬、お前いい加減寝ろ。…咲良が心配してたぞ」


手元に置かれた茶に手をつけつつ、諫言する。

すっきりとした香りの茶は頭を覚醒させるには十分だった。


「あいつは心配するのが性分なんだよ」


茶を啜る男の気配が微かに和らぐのを感じ、なんとも笑い出したい気分になった。


ーーあいつが今のこいつを見れば良いんだが


恐らく今手の中にある茶も咲良が気を利かせて用意したものだろう。ちょうど良い温度のものは非常に飲みやすかった。

藤馬のために咲良が甲斐甲斐しく世話をしている様子が目に浮かんだ。


「…雪割は?」


三角の唯一の肉親である娘の名前を出す。

藤馬はああ、と頷いた。空木の手が伸びないよう、少女を藤馬の元で保護していたのだった。


「空木の査問があるからな、春蘭に向かってる。…奴が捕まった今、あの子がもう逃げ回る必要はない」


「そうか」


「お前…なんて顔してるんだ」


「…」


呆れた顔で告げられて、月は自分の顔を擦る。

擦っても自分が今いったいどんな顔をしているのからわからなかったが、藤馬が思わず口に出してしまうくらいきっと酷い顔をしてるんだろうことはわかった。


「心配しなくても大丈夫だ。あの子は俺たちが思ってるよりもずっと強い」


友人の言葉に自嘲染みた笑いでしか返せなかった。藤馬は決して根拠のない励ましを言う性格ではないが、月はそう簡単には思えなかった。


脳裏に、冷たくなった父親の前で絶望に泣き暮れる少女の姿が焼き付いて離れない。


妻を早くに亡くし、娘一人しか肉親のいなかった三角はたった一人で陣長という地位まで上り詰めたが、その後ろ楯は皆無に等しかった。


三角が殺される場面を雪割はずっと見ていたという。


陰から見ていたが、恐怖で声が少しも出なかったと。

父親が目の前で弑されたことで、幼い少女の心にどれだけ深い傷がついたか月には計り知れない。


結果的に、声を出さなかったおかげで雪割は見つかることがなかったわけだが、そのことを彼女は悔やんでいる。そして、力がなく空木を断罪できない自分を責めている。

己も、雪割とまた同じく幾度と繰り返す後悔に苛まれている。それは空木を捕まえた後でも変わることはない。


膝の上でぐっと拳を握ると、空気を変えるようにわざと茶化した声で藤馬に言った。


「で、随分前から我が物顔でこの部屋に居座ってるようだが、ここはアヤメのものってわかってるか?」


「ここは昔も今も俺のものだよ。アヤメに少し貸してるだけだ」


藤馬も月の心中を察してか、おどけたように肩を竦めてみせた。


「業突張りめ」


「俺は真実しか言ってないが?」


月の誹りにもさして怒った風もなくさらりと受け流してみせ、今度は同じように口調を真似て藤馬が問い掛けた。


「で、眼鏡はもういいのか?ーー『月』」


ニヤリと意地悪く笑いながら。


「……」


途端に苦虫を潰したようになる友人の顔に藤馬の笑みが深くなる。


月はそんな藤馬を睨み付けると無愛想に言葉を返した。


「…どうせわかってるんだろう」


「ああ。全部話したんだな」


すべてを見透かしているような口振りが非常に面白くなく、肯定もせずに黙る。


「義理堅いお前のことだからな。予想はついてたさ」


「初耳だな。いつからお前からの俺の評価がそんなに上がってたんだ」


言葉とは裏腹に形勢逆転したこの展開が面白くなく、ふんと鼻で笑って返した。


「アヤメは俺に似て純真だろ?」


どの口がそんなことを言っているのか。月は『純真』の意味を本当にわかっているのか問いたくなった。


「面白い冗談だな

ついでに言うと真相を言うとアヤメと兄妹だなんていうのも冗談なんだろ」


わかりやすく嫌みを込めてごくごく真面目な顔つきで言い放ってやると、その反応が愉快だったのか、藤馬はくくっと喉奥で音をたてて笑い始めた。


普段からこの男は人を小馬鹿にしたような笑みを張り付けているが、これは本当に可笑しいらしく珍しく本気で笑っている。

男の笑いの浅さと大袈裟な態度をさすがに不審に思っていると、月が予想もしていなかった答えが返ってきた。


「お前、いいとこついてるよ。兄妹っていっても、実は半分しか血は繋がってない」


なんともあっさりとした告白だった。


「そうなのか」


「母親が違うんだよ」


道理で…と独りごちる。

あまり似ていない兄妹だと思っていた。目の色は同じだが、それ以外は外見も性格もまるきり違う。


野心的で常に上昇思考を持つ藤馬とは反対に、アヤメは地位や権力に興味がないというか、常にのんびりと構え、何事にも執着や興味を示さないように見えた。


「全部話しても、誰のことも責めなかったろ」


藤馬のその口振りは確信めいている。


ーーさすがは兄、か


アヤメが半分であれ何であれ目の前で笑うこの偏屈者の実の妹であるということ。


似ている似ていないは関係なく、藤馬はアヤメのことをよくわかっているようだった。


事実、藤馬の言ったことは当たっており、打ち明けた後もアヤメは自分が囮にされたことに対し誰も責めることはなかったし、その素振りさえも見せなかった。それどころか、自分に対して礼まで言ってきたのである。


「あいつは…不思議な奴だな」


琥珀の瞳。


覗き込んでも自分の内面は決して見せようとせず、のらりくらりとかわしてしまうアヤメの態度は、やはり前にも感じた通り、懐かない猫のようだった。


だが、今回のことで意外な一面も垣間見た。



『僕は月を信じるよ』



月は事前に『藤馬の妹』と知っていたためどこかで偏った見方をしていたのかもしれないが…、それまで、臨時の補佐官になど特別に感情を抱いていないと思っていた。



『…守ってくれてありがとう』



空木と対峙した時の、あの無機質な目をしていた人物とは同じとは思えないくらい、温かい目。



アヤメはいつだって着飾ることなくまっすぐに『月』と接していたということに気が付いた。

他人との関わりに欠片も関心がないような素振りでも、きちんと人の見るべきところは見ており、その本質をちゃんと見ていたからこそ、自分の言葉で素直に謝れるし、礼を言える。


危機に瀕しても怯まない冷静さ、ずば抜けた観察力、そして思いがけず知った情に厚い一面に、『欲しい』と気がつけば勝手に口が動いていた。


随分と自分はアヤメを気に入ってるらしい。


珍しい自分の行動に内心自分自身が一番驚いていた。


「やらないよ」


唐突な言葉に目の前に意識を戻す。

そこには不敵な表情を浮かべた男の姿かあり、長椅子に背をゆったりと凭れかけすべてを知っているかのような口調で月に話しかけてきた。


「あいつは俺のものだ」


お得意の、ちょっと笑いを含んだ声。

けれどもその目は強烈な光を湛え、言外に発言が本気であることを伝えてきた。

何のことかととぼけようとも思ったが、それも大して意味を為さないだろうと思い、不穏な空気を醸す藤馬に開き直って笑った。


「シスコンが」


「筋金入りのシスコンに言われたくないな」


月は即座に返された言葉に不服を表し、一言一言強調して答えた。


「俺が、いつ、そんな肩書きを持つようになった」


「知らぬは亭主ばかりなりってな。干渉も過ぎると嫌われるぞ」


「書類の見すぎで視力が落ちたか?東の鷲と吟われたお前が」


「それ、俺が優秀すぎるって遠回しに誉めてる?」


「…めんどくせえな。いちいち揚げ足を取って返さなくていい」


皮肉の応酬にうんざりして、睨み合っていた目を先に月の方が離した。疲労が一気に蓄積された気がする。

藤馬とのこういったやり取りは活力が有り余ってる時でなければ心境的にはお断りである。


そんな苦い顔をする月に藤馬はふっと笑うと、するりと長い足を気障ったらしく組み直した。

例え目の下に隈を作っていようが、だらしなく服を着崩していようが何の動作をしても様になってしまうところが気に食わないところだ。


少し伸びた前髪が艶っぽく藤馬の顔に陰を作らせる。優男風の美丈夫な見た目にこれまで何人がころりと落ち、信用し、騙されてきたことか。月は両手が足りなくなったところで数えるのを止めた。不毛だ。数えきるには人間の枠を越えなければならないし、越えたところで何の得も月はにはない。


整った顔に笑みを乗せて藤馬は余裕綽々といった視線を投げ付けてくる。


「さてシスコンくん、そういえばお前の麗しのお姉様が明日には戻ってこいと言っていたが…」


その一言に月は顔色をサッと変えた。


「馬鹿お前!それを早く言え!!」


「いや、言おうと思ったらすっかり寝こけてたんでな。優しい俺は気を遣って起こさなかったんだよ」


「…この野郎…」


藤馬が上機嫌ににやにやと笑う。


ーー確信犯だ


机越しに藤馬を睨み付けて、さっと窓の外に目を向けると、すでに陽はとっぷりと暮れている。今から白杏を出なければ明日までにたどり着きそうになかった。

そこまで考え、目にかかる赤い髪を鬱陶しげに払うともう一度、目の前の男をきつく睨んだ。


「地味な嫌がらせしやがって」


「ははは。むしろこのまま『月』として補佐官でも続けたらどうだ。案外合ってると思うが…

 …俺の妹一人守れなかったけどな」


痛いところを突かれ、言葉に詰まり口をつぐむ。


「まあでも、そのことに関してお前を責めるつもりはないよ。飛び出していったあいつが悪い」


嘘つけ、と毒づく。

『責めるつもりはない』などといけしゃあしゃあと言いながら、その口許は笑っているが目は顕著に怒りを表しており、冷ややかさをもって月を見返していた。


「当たり前だ。お前に責められる言われはない」


顔に不快さを表しきっぱりと言い放つとそのまま月は席を立ち、藤馬に一瞥もくれず扉へと足を向けた。

このままここにいても藤馬からねちねちと遠回しな嫌みを言われ続けるだろうことは目に見えてわかっている。これ以上気疎い思いをする前に早々に立ち去るのが賢明だった。


立ち去ろうとする月の背中に向けて藤馬が何気なく声をかける。


「そうそう、

ーーあの暗号、今後も連絡手段として使うから 。…アヤメとも使いな」


笑い声を含んだ藤馬の言葉に月はチッと大きく舌打ちをして返事をすることなく荒々しく扉を閉めた。


…どこから見ていたのか、アヤメが暗号により月と藤馬が繋がっていることをわかっていたことに、藤馬は気がついていたのだ。


やはり、アヤメと藤馬が兄妹なんて思えない。


鬱陶しさを拭うようにもう一度舌を鳴らし、月は灯りで煌々と照らされた唐桃の廊下を足早に歩いていった。

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