第6話 空木
黙々と事務仕事に徹していた月は、突如様子の変わったアヤメに気づき、作業の手を止めないままにこっそりと目を向けた。
いつもどこか眠たげに霞んでいる瞳。
特徴的な琥珀に光る眼球が左から右へと繰り返し素早く動いていく。
止まらず淀みがないのは彼女の理解力の高さを表している。が、読み終えただろうに、一向に返書に取り掛かる様子がないのだ。
眼鏡の奥の切れ長の目を処理が完了した書類へと向け、アヤメが何の書類に手を止めているかを理解した月は微かに笑みを浮かべた。
(そこまで馬鹿ではないらしい)
およそ上司へと向けるものとは思えない程ひどい感想を持ちながら月は値踏みするような目で観察を続けた。
謹厳実直な人物ではない。
長という座にも、執務に関しても、消極的な姿勢で不承不承やってるのは誰の目から見ても明白である。
だからといってその怠慢とも言える態度に対し民から特に反発があるわけでもないが、それは思うに、全てはひとえに有能な兄の立ち回りおかげで、この少女の日頃の功績によるものではないのだろうと推測する。
野望も出世欲もない、目立った才があるわけでもない、その上魔術に至ってはほとんど簡易符頼りだというこの平凡な人物に何故藤馬が期待をかけているかわからなかった。
だが――
じっと書類を見つめる姿にひょいと眉を上げる。
勘は良いらしい。
「月」
「なんです?」
「変だよね。視察を焦って行う必要があるか?」
薄い紙一枚に書かれた悪魔のような書類をヒラヒラと振ってみせる。月は眼鏡の縁を軽く押し上げアヤメの意図することがわかったように、ああと頷いた。
「噂では、任期終了までに軍事施設を新たに作りたいそうで」
「はあー、なるほど」
「表向きは、各地の学院がどのように機能しているかを実際に見極めるため、となっています」
血の気が多く、戦好き。
魔術の不得手な自分の代わりに得意な人物を独自に囲い込み、怪しげな研究に勤しんでいるという。
作られた簡易符や魔道具は、殺傷能力が高く、東西戦争の際は大いに活躍していたらしいが、終戦後の今となってはそれらが使われることはほとんどなく、元々プライドの高かった魔術師は空木から離れていったこともあり、空木の名声は今や昔のものとなっていた。
一部、空木を崇める熱狂的な信者はいるものの、治安が良くなるにつれて焦るように過激化する空木を支持しない者が増えてきている。
軍国主義派の一人でもある空木は、以前から政治と軍事の分離を否定し、まわりの部下も軍国主義派で固めている徹底振りであった。
そんな人物が、とてもじゃないが将来を担う若者たちのために何かしようとするつもりであるとは考えられなかった。
「点数稼ぎか」
白杏は自然と共存している。拓かれていない土地も多く、それを必要と取るか不必要取るか。あの男なら必ず後者だろうとアヤメはため息を吐く。白杏が狙われる可能性は大いにあった。
黒曜石の瞳が浮かぶ。
肉食獣同士がぶつかれば、待っているのは一方の死だ。ローが知れば、厄介なことになるのは明白で、アヤメは考えを巡らせた。
「軍事施設か。…確か空木は軍備予算を増やすよう王立軍に進言してたよね」
「はい。十年前のように、また魔獣が異常発生することを危惧してるとのことで…。
ただ、武力が一箇所に偏ることを懸念した王立軍と文教関連費にあてるべきとした民の反対を受け、進言は撤回してます」
「まあ、運用費、維持管理費、人件費、軍事施設ひとつに莫大な予算がかかるし、おいそれと作れないのはわかっていたんだろうね。
その件は、信者や部下の手前のパフォーマンスだと考えてるけど。
…今回はおかしいな」
「何故?」
出来の悪い生徒がどこまで考えられるか試すように月はにっこりと笑って続きを促した。
途端にやり辛くなったアヤメは意地悪い部下をじっとりと睨め上げ、渋々考えを口にした。
「…まず、前回の進言から日が空いてなさすぎる。
空木がここまでのし上がれてきたのは一重にアピール強さと引き際の良さ、つまり駆け引きが上手い点にあると思う。
まあ家が裕福で研究の資金繰りに困らなかったっていう点も大きいけど。
その空木が局長就任早々、自分の取り巻き引っさげて上に楯突いて権力と影響力を周りに見せつけたんだ。
あれだけ派手に誇示したら、王立軍も空木の立場の強さを意識せざるを得ないし、これだけでもパフォーマンスとしては十分なはずだ。
…それなのに、星の巡りも終わっていないうちに反対を受けた軍事施設を作ろうと陰で動くのはやり過ぎてる。これじゃ自分のイメージが悪くなるばかりなのに。
あと…」
一度言葉を切って、月の表情を様子見た。外向きの綺麗な笑みを作ったまま、月は動かない。
「その噂が出回っていること自体怪しい。空木がそんなヘマするかな」
「ところでアヤメ様」
「うん?」
「白杏滞在中、飼育係はアヤメ様のお仕事ですから。頑張って下さいね」
ようやく口を開いたかと思えば、突然話を逸らされてアヤメは盛大にコケた。
「えっ…今の話、聞いてた…?」
「現時点では、肯定も否定もできません。材料もありませんし」
「いや、月の考えとか」
「ハハハ、そんな私の意見なんか」
そう言ってくるりと背を向けると、再び自分の机で作業を再開した。
ここへ来る前は春蘭で働いていたというから、自分より事情に詳しいかと思ったのだが…
そう簡単には教えてくれないらしい。
「兄上みたいだ…」
無意識に呟いた言葉に月の表情が一変して、苦虫を潰したような顔になる。
寄せられた眉は不快極まりない、といった風だ。
過去に何があったのか、月は藤馬のことを相当に毛嫌いしている。名前が出るたびに本人も無意識なのか、嫌悪感を現にするのである。
『よく飼い馴らされた鷹』だと藤馬は月を評している。しかし、アヤメには月が誰にどう飼い馴らされているのかさっぱりだった。
こうして己の部下としても、虎視眈々と何かを狙っているような気がして、とても誰かに飼い馴らされているとは思えない。
面白い男、か…
銀葉は自分に何を暗示していたのだろう。示唆とも揶揄とも取れる先日の言葉を何度も繰り返し考えるが、答えはまだ出ない。
空木の動きも月の動きも予測するには不確定要素が多すぎる。
それなのにアヤメの胸のあたりでは、嵐の前触れのような悪い予感だけがざわざわと渦巻いていた。
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