第31話

 レイは、戦いを開始した。

 残された時間との戦いだ。

 筋力の低下はやがて全身に及ぶだろうとレイは考え、手元だけで端末を操作できる小型のリモート入力パッドと、音声入力のためのマイクを発注した。検査と滅菌処理を施す必要があるため、手元に届くのは1ヵ月先になるだろう。

「それくらいの時間は大丈夫だと思うよ。2ヵ月になるとわからないけど」

 そう言ってレイは笑う。

 朝食の量は減り、点滴の種類も変わった。

「締め切りに追われる売れっ子作家だと思うことにするよ」

 点滴を受けながらレイは言う。既にいくつものクロッキーを描き上げている。ベッドから見える風景、静物から始まり、私の顔、手元、点滴を挿しにきたドクターと看護師、更にはここにはない動植物や風景画まで、次々と瞬時に記憶して描くようになった。

 朝も夜もクロッキーを描き続け、3日後、ついにレイは本題に取り掛かった。


 下絵の段階で、レイは何度も何度も描き直しをした様子である。

 描いた構図や表情が気に入らず、描いては削除を繰り返していた。時には感情をき出しにして頭をきむしり泣き出すことすらあった。


 そんな状態が続いたある日の夜、点滴の最中にレイはいきなり大きく目を開いて起き上がり、下絵無しでペインティングを始めた。レイの表情から柔らかさが消え、一言の会話をすることもなく4日間か過ぎた。


 4日後の夜、レイは携帯端末上から手を離して言った。

「マリア……やっとできたよ……」


 端末画面には、暗雲と稲妻を背景にして、胸をはだけている女性の絵があった。油彩画タッチで描かれた女性の表情は整っている。しかし眼には怒りの炎を宿している。


 レイの描いた作品は「ネメシス」と題された。

 ネメシスとは、神の義憤、怒り、迫り来る運命を象徴するギリシャ神話の女神の名前である。


 それから1ヵ月後、この作品はイタリアの美術誌でセンセーショナルに取り上げられた。

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