第28話

 看護活動61日目。現在は20時05分。


 今日から点滴が、朝と夕の2回行われるようになった。

 食事も固形物の量が減り、ゼリー状の物が増えた。

 服用する薬から錠剤が消え、散剤が増えた。


 レイの嚥下えんか能力の低下がその原因だ。

 嚥下能力だけではない。全体的に筋力の低下が確認されている。だが、嚥下能力の低下は容易に誤嚥性肺炎ごえんせいはいえんを引き起こすため、より深刻だ。

 造血能力が極度に低下し、輸血への深刻な拒否反応があるレイの身体は肺炎発症後の外科手術に耐えられない。このままレイの嚥下能力が低下していくならば、近いうちに鼻からチューブを通して胃に直接栄養剤を流し込む事になるだろう。


 昨夜、ドクターからの説明を受けて、レイの父親は号泣していた。モニターの中でしきりにレイに謝っていた。

 反対に、レイの顔には感情が現れていなかった。

 レイの父親が病院を出て行ってからしばらくして、レイは私に言った。

「意外と、早かったよ」

 レイはこうなる事を予測していたようだった。


 告知から1日経った今日、レイは口数が少なかった。

 携帯端末には通知がいくつもきているので、仲間たちとのやり取りは継続しているらしい。


 夜の点滴終了時に、伊上いがみ看護師が現れた。

「なになに? 今日は朝から誰ともしゃべってないんだって?」

 グローブボックスの向こう側から、伊上看護師はレイに明るく話しかける。

「たまには不機嫌になるのも仕方ないけどね、病気だもんね」

 伊上看護師はグローブボックス内にゴム手袋の両腕を突き入れ、レイの腕から点滴の針を外しはじめる。いくつもの注射あとが並ぶレイの左腕は、静脈の形がはっきりわかる。伊上看護師は注射針を抜いた痕を念入りにアルコールで消毒し、パッチを貼り付け、止血ベルトを巻いた。

「伊上さん、ごめん……この前のせっかくの命令だけど、無理だと思う……」

 今日初めて、レイが言葉を発した。

 伊上看護師は動作が止まる。

「僕はここを出られない……こんなところに入れられた段階でわかってた……僕はもう長くないって……外に出られずに終わるって……だから、お世話になった伊上さんには、死ぬ前に何か遺したいんだ……こんな状況だからまた絵を描いてあげることくらいしかできないけど、それで……」


 パン! という音が無菌室内に響いた。

 伊上看護師がゴム手袋をはめた手で、グローブボックス越しにレイの頬を叩いた音だった。


「あんたねえ……いい加減にしなさいよ! 」


 呆然とするレイの胸元を掴み、伊上看護師はレイの上体をグローブボックス内に引き込んだ。そしてレイの右腕を掴み、グローブボックスの内側からレイの右腕を今自分の左腕を抜いたばかりのゴム手袋を裏返すように突き入れる。グローブボックスの外側にレイの右腕が突き出た。


「悟り澄ましたような事言うんじゃない! 男の子ならもっとドロドロとした欲望持って、生き抜こうと思いなさい!」

 そう言って伊上看護師は、自分のナース服の胸元をはだけ、ゴム手袋に入ったままのレイの右手を、自分の胸元に突っ込ませた。

「魂は売っても身体は売らないこの私がここまでしてるのよ! もっと欲望を持てよこの野郎! 目の前の女とやりたいとか思え! そこから出たいって思え! もっと生きたいって思え!」

 怒りの表情で一気にまくしたてた伊上看護師に、しばらくの沈黙の後、レイは静かに語った。

「……あったかい……手のひらで他の人の体温感じるって、何ヵ月ぶりだろう……もう絶対にこんな事無いと思ってた……ありがとう……」

「そ、そんな……他に言うことないのかあんた! やりたいとかあるだろ!」

「うん……怒らないでね……僕は今一番したいことをこれからするから……」

 一瞬身をこわばらせた伊上看護師だが、レイは彼女の胸から手をゆっくりと抜き出し、そっと指先で彼女の涙を拭った。

「あんたって子は……」

 そう言った伊上看護師は、グローブボックス内に突き出たゴム手袋の右腕でレイを抱き寄せた。レイも伊上看護師の背中に右腕をまわす

 伊上看護師とレイはゴム手袋の腕で抱擁し、グローブボックス越しにキスを交わした。長い、長いキスだった。

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