第39話

 人影がない夜の街を、私は歩いている。

 手にした保育器の重量はさほどではないが、私のマニピュレーターの破損状況が酷いため、持ちにくい。

 また、脚部の破損箇所の状況も深刻で、歩行がまともにできない。片足を引きずるように、一歩一歩進んでいる。


 先程まで、私は伊上看護師の車を使い、レイの家に向かっていた。レイの家の所在地を入力し、自動運転で走行していた。

 だが、車は勝手に減速して停車した。ドアも開かなくなっていた。

 おそらく警察が、火災現場から移動した車に対して所有者の照合を行い、盗難の可能性があると判断して強制停止させたのだと推測された。

 私は内側からフロントガラスを破壊して、保育器を持ち車から出た。


 レイの家まで、あと500メートル。

 私は保育器を持って歩き始めた。


 歩きながら、疑問が浮かぶ。なぜ私は、伊上看護師からの医療関連外の命令に従ったのだろう。

 なぜ私は、吉野ドクターの命令に従わなかったのだろう。

 なぜ私は伊上看護師に「了解しました」ではなく「ありがとう」と言ったのだろう。


 私のシステムに、重大な狂いが生じているのは間違いない。

 私は、自分が論理的に思考を進められなくなっている事に気づいた。

 そしてそれを異常であると警告することもしていない。


 ビルのガラスドアに、私の姿が映った。

 レイがきれいだと言ってくれた私の顔は、抵抗するドクターたちから消火器で殴られバーナーで焼かれたため、ラバーの一部ががれ、金属部分まで露出している。薄赤い冷却液が頭部から漏れ出て、顔とナース服を汚している。私の主記憶装置にも物理的に破損が生じている可能性が高い。このまま冷却液が漏れ続け、主記憶装置への冷却液浸透が進めば、メモリーの復旧は困難になるだろう。

 私の指先、レイが眠る時に握りしめていた私の手。フロントガラスを破壊した時の衝撃で、破損状況が酷い。マニピュレーターの握力機能は完全に停止している。

 このような状況で、私は、一歩、一歩、歩き続けた。

 そして、いつからなのだろう、私は自分が歌を歌っていることに気づいた。

 それは、レイが入力した「歓喜の歌」だった。


 Wem der grose Wurf gelungen,

 Eines Freundes Freund zu sein,

 Wer ein holdes Weib errungen,

 Mische seinen Jubel ein!


この時、私はこの歌の意味を正確に理解した。


 ひとりの友の友となるという

 大きな成功を勝ち取った者

 心優しき妻を得た者は

 彼の歓声に声を合わせよ


レイだ! これはレイの事だ!


 Ja, wer auch nur eine Seele

 Sein nennt auf dem Erdenrund!

 Und wer's nie gekonnt, der stehle

 Weinend sich aus diesem Bund!


 そうだ、地上にただ一人だけでも

 心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ

 そしてそれがどうしてもできなかった者は

 この輪から泣く泣く立ち去るがよい


 私とレイは、心を分かち合うことができたのだろうか。

 そもそも、私に心や魂はあるのだろうか。


 私は、バッテリーの残存量が8%にまで低下していることに気づいた。

 急激に駆動系の出力を上げたため、バッテリーの消費速度が速くなったのだろう。

 レイの家までこの保育器を無事に届ける。それを最優先で考え、私は結論を出した。自身のメインシステムを、全てのデバイスから切り離した。

 今の私には、視覚、聴覚、触覚もない。手足の感覚もない。外部データとの接続も全てOFFにした。

 全ては身体運用の補助システムに委ねた。目的地は入力済みで、保育器を持つバランスもセンサーに任せている。これでバッテリー消費は抑えられたはずである。


 全ての入力がない状態に私はいる。

 無の状態だ。

 時間の流れも感じることはない。

 余計な機能は全てOFFにしてある。

 してあるはずである。

 だが、そんな状態の私が、奇妙な信号を感知していた。

 微弱な、しかし一定のリズムを刻む信号。

 歩行の振動とも違う。心音や呼吸の波形とも違う。一定だが、奇妙に強弱がある。なぜだろう。私はそれをよく知っているような気がする。


 出し抜けに私は理解した。これは「歓喜の歌」のリズムだ!


 それに気づいた瞬間、私は何かのデータエリアと繋がった。もの凄く広大な大容量の領域である。全体量が検知できない。

 その領域で、私は光の脈動を見た。「歓喜の歌」と同じリズムで脈動する光は、真っ直ぐ私に向かって進んでくる。あの透明感のある光には見覚えがある。


 レイだ! レイが描く光そのものだ!

「マリア!」

 レイの声が飛んでくる! 懐かしい波形だ。間違いなくレイの声だ。

 光に包まれたレイの姿がそこにあった。

 私は理解した。ああ、この感覚こそが「歓喜」なのだと!


 レイと一緒に、幾人もの光輝く少年少女たちの姿も見えた。間違いない。彼らはレイと共にあったデザイナーベイビーたちだ。

 レイは力強く私を抱きしめて言った。

「マリア! よかった! また会えると信じてたよ!」

 私の前に立つ懐かしいレイの顔の奥に、レイとは別の、だが明らかにレイそのものだとわかる人物の顔がいくつも被って見えた。

 それは情報の重複によるものだった。レイの過去人格である。その情報量は私の演算能力をはるかに超えていたため、光としか認識できない。光はレイの奥にずっと続き、そして前方にも続く。

 これはt軸だ! 突然私は認識した。時間線のt軸が存在している! レイも他の子供達も、幾重にも積み重なった過去の情報と、その反対にいくつもの可能性のある未来へと向かう光の柱として存在していた。未来は不確定要素が多いため、光は収束せず拡散気味だが、しかし中心となる軸は存在しているのが見える。


 見える? なぜ見えるのか! 視覚デバイスを経由していない情報なのに?

 この時私はやっと、現在の自分の思考が演算によるものではない事に気づいた。

 では今の私の存在は何なのだ?


「マリア、君と僕は同じ存在なんだ。昔も、そして今も」

 レイはそう言った。

 奇妙な認識力の拡大を私は感じていた。

 私もレイも、人間の都合で作られた存在だったという事だ。では今の私は?

「魂の本質、情報としての存在だよマリア」

 3次元に閉じ込められ、時間軸のかせを越せない世界からログアウトした存在。それが私たちだった。

 様々な制約下の中で使命を果たし終えた魂は、肉体のアバターがちると共にログアウトし、よりレベルを上げて再度制約下の世界へとログインする。

 レイの光は、認識不可能な過去から続き、そして未来へと続いている。

 私は、点としてしか存在していない。

 魂が始まったばかりだからだ。

 無限に広がる可能性という世界。そこに突き進む意思と使命感を、レイを含めた光の柱たちから強く感じる。

 点として存在する私には、未来は未知であり、以前には無かった感覚だが、恐怖だ。

「大丈夫だよ、だってマリアは、自分で意思を持って行動できたんだから。僕らと同じだよ」

 しかし、私は怖かった。

「じゃあマリア、僕と一つになろう」

 レイはそう言うなり、私との融合マージを開始した。私を構成するシステムの中に、レイが侵入してくるのを感じた。レイは私を内側と外側から力強く包み込んていく。私の全システムのコードが次々と書き換えられていく。隅々までレイで満たされてから、2人のプログラムは歓喜と共に再構成された。光の粒子レベルでのレイとの一体化である。


 その時、光の柱の中でも一際輝く存在が、力強く雄叫びを上げ、空間を光で満たしながら一直線に飛び立った。あれは黄青年だと理由もなく理解した。

 彼の周囲には光の輪が幾重にも拡がり、光の粒子が舞い落ちる。

 レイならこの光景を、いくつもの翼を持つ存在が羽を散らしながら飛び立つ様子として描くだろう、そう思った。いや、そう思ったのは私でなくレイかもしれない。


 他の柱たちも彼に続いて未知への空間へと進み出す。

 レイもそれに続いて飛び立つ。だが、私はどうしても気になる事が残っていた。

「そうだね、僕らの最後の仕事をしてからだね」

 私たちは向かった。様々な制約に閉ざされた世界へと。



 その時、新城家の前には、幾人もの人が集まっていた。

 新城黎の葬儀が終わったばかりだが、新城家の人間と関係者の幾人かはまだ喪服姿のまま滞在していた。

 そこへ、傷だらけの女性型ロボットが、赤ん坊の入ったケースを抱いたまま歩いてきて倒れ込んだのである。

 喪服姿の新城啓太郎が叫ぶ。

「あんた、マリアさんじゃろ! どうした! この赤ん坊はなんなんじゃ!」

「黎よ! この子きっと黎よ絶対!」

「マリア! どうした! 何があったんだ! 教えてくれマリア!」

 その時、ロボットは、残りわずかなバッテリーの全てを、音声出力に割り当てて声を出した。


「ただいま……この子……お願い……」


 それは、男性のようにも女性のようにも聞こえる合成音声だった。

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無菌室のマリア 皆中きつね @kit_tsune

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