番外編 温泉と美女

 とある旅館の温泉に入るべく、草川葵は脱衣所で浴衣を脱ぎ、生まれたままの姿をさらした。

 温泉に先客はいるようだが脱衣所にいるのは彼女一人だ。

 裸のまま鏡の前に立つ。


「はぁ」


 思わず、ため息をついた。


(昔は自分の身体に自信があったのに……)


 鏡に写る彼女の容姿は客観的に見て非常に優れている。

 長身でやせ型。それでいて出るところは出ている。抜群のプロポーションだ。

 体型だけではない。顔も文句なしの美人だ。少しキツい印象はあるかもしれないが、男なら誰もが振り返るほどの美人である。

 葵は33歳だ。

 だがその肌は20代前半と言われても信じそうなほどに瑞々しく、彼女が普段から身体を維持するために努力していることがうかがえる。

 誰もが羨むような美貌を持つ彼女は、暗い顔で温泉へと向かった。


 湯舟には一人の先客がいた。

 10歳ぐらいの女の子だ。

 辺りを見回しても、彼女の保護者と思われる大人はいない。


(お父さんと来たのかしら?)


 父親と一緒でも、さすがに男湯に入れる年齢ではないのだろう。

 可愛らしい少女だし、もし入ってしまえばロリコンの餌食になってしまいかねない。

 かけ湯をしようと浴槽に近づく。


「お゙ぁ゙~~」


 間延びした声が聞こえた。

 声の主は先客の少女だ。

 彼女は目をつぶりながら気持ちよさそうにふやけている。

 どうやら葵の存在に気づいていないらしく、人目を気にすることなく温泉を満喫していた。


(随分とまぁ、気持ちよさそうね)


 蕩けている。

 まだまだ小さい子どもなのに、温泉を心の底から愉しんでいるらしい。


(私が子どもの頃は、温泉の良さは分からなかったなぁ)


 今でこそ温泉に入れば気持ちがいいと感じるし、心が癒されていく。お湯に浸かっている間は余計なしがらみから解放される。

 でも彼女ぐらいの歳の頃はゆっくりと温泉に浸かることもせず、泳いではしゃいだり、すぐにのぼせて湯から出ていたものだ。


 温泉の良さは大人になってこそ分かる……ものだと思っていたが、目の前の少女が入浴する姿は、まるで疲れ果てた大人みたいに堂に入っていた。


 大人である葵以上に温泉を満喫している少女の邪魔をするのは忍びない。

 気づかれないように静かにかけ湯をして温泉に入る。


「ん~~~ッ」


 温泉の心地よさに、自然と声が漏れた。

 静かに入るつもりだったのだが、気持ちがよくて声が漏れるのはどうしようもない。

 少女の方に目を向けると目が合った。

 案の定、こちらに気がついてしまったようだ。


「邪魔してごめんね」

「おねーさん、おっぱい大きいね」

「……えっ?」


 唐突な言葉に驚いて目を丸くする。

 第二次性徴期に入り始めたぐらいの歳ごろの少女だ。葵の大きい胸が気になるのは、おかしなことではない。

 だが似た年頃の少女が向けてくる視線とは少し違うものに感じた。

 かといって異性から向けられるソレとも違う。

 

(観察されている……)


 植物や虫を観察する子どものように、少女は葵の胸をジッと観察していた。

 その視線に居心地が悪くなって、つい言ってしまう。


「触ってみる?」

「いいの?」


 不思議な少女が傍に寄る。

 そして葵の胸を掴んだ。

 少女は反対の手で自分の胸を掴みながら言う。


「私の胸は大きくなるのかなぁ」


 少女が呟く。

 どこか隔絶した雰囲気を持つ少女が、普通の少女と同じような悩みを持っていることに安心したし、微笑ましかった。

 胸が大きくなるかどうかは人それぞれだ。

 だから葵が勝手なことは言えない。


「あなたの胸が大きくなるかどうかは私には分からない。でも、いずれにせよ、女の魅力は胸の大きさじゃないからね。胸が大きくても魅力のない人もいるし」


(私みたいな……ね)


 葵は自嘲する。

 確かに葵の容姿は優れている。

 彼女にはその自負はある。

 だが、そんな自信は木端微塵に打ち砕かれた。


 ――子どもができないのだ。


 葵が悪いという訳ではない。検査をしても、夫にも彼女にも原因らしい原因は見当たらなかった。

 単にめぐりあわせの問題なのだろうと思うが、一向に子宝に恵まれなかった。


 女性の価値は子どもを産むことではない。人間の価値は子どもの有無や子どもを産む能力で変わるものではないはずだ。

 それでも葵は、完全に自信を失ってしまった。

 なまじ今まで自分の身体に自信があったが故に、その反動で心が深く沈んでしまっているのだ。

 この温泉にやってきたのは、効能の一つに子宝があったからだ。信じている訳ではなかったが、そういうものに縋りたい気持ちだった。


「おねーさん?」


 義理の両親は優しい人たちだった。

 葵にプレッシャーをかけないように、子どもの話題は出さないようにしてくれている。夫は一人息子だ。兄弟や姉妹はいない。だから本当は葵たちの子どもを切望しているはずだ。孫が見たいと思っているはずだ。それでも彼らはその話題に触れないでくれている。

 ありがたいと思っていたはずのその優しさが、徐々に心苦しさに変わっていた。


「……」


 彼女の両親は最低だった。

 遠慮も気づかいもなく、早く子どもを産めと言ってくる。

 母親にいたっては昔遊んでいたバツだと厳しく葵を責め立てた。

 確かに葵は若いころヤンチャをしていた。

 今は一切吸っていないが、未熟な身体でタバコを吸ったこともある。産婦人科の先生は過去のタバコは関係ないと断言してくれたが、母親はいまだにタバコのことを責めてくる。

 当初は笑い飛ばしていた母親の言い分も、ずっと子どもができずに心が弱っていけば、心の奥にグサグサと突き刺さっていく。


「……」


 気がつけば葵の目から涙がこぼれていた。

 温泉に浸かったことで気張っていた心が限界を迎えたのかもしれない。

 自分の頬に涙が伝っていることに気がつき、自分のことながら驚いていると突然身体が引っ張られる。


「えっ?」


 何が起こったのか、すぐには分からなかった。

 温かく、それでいて少し柔らかな感触。

 その感触は、膨らみ始めの少女の胸によるものだった。葵は少女に抱きしめられていた。

 裸で子どもに抱きしめられる大人。

 互いに女性であるとはいえ、他の人に見られたら怪しまれることは間違いないだろう。

 慌てて離れようとすると、頭にポンと少女の手が乗った。


「よく頑張ったね」


 少女は葵の頭を撫でながら、よく頑張ったと優しく告げる。

 その言葉はスッと胸の中に染み込んだ。


「ゔぅ゙、ぁ゙あ、あああ」


 気がつけば恥も外聞もなく、少女に抱き着きながら、彼女の胸元で泣いていた。

 「よく頑張ったね」というただその一言を自分はずっと欲していたのかもしれないと思った。




    ◆




 葵が満足いくまで泣きつくしたのを見届けて、少女は温泉から上がっていった。

 結局、名前すら聞けないまま別れてしまった。

 湯舟に浸かりながら、少女のことを考える。


「あの包容力……あり得ない」


 改めて、女の魅力は胸の大きさじゃないと思った。


(バカみたいにでかい胸を持つ大人な私より、まだ膨らみかけの胸の少女の方がよっぽど魅力的だったし)


「あの子、何者だったのかしら」


 不思議な少女だった。

 温泉に入る姿はまるで年長者のように堂に入っていた。

 葵の胸を観察して、自分の胸と比較する子どもっぽい一面もあった。

 そして、しまいにはあの包容力だ。自分の母親には全く感じない母性を、10歳程度の少女に感じた。

 あり得ないことだ。ただの子どもではない。


(それどころか……もしかして普通の人間じゃなかったり? 座敷童的な?)


 だとすれば超然とした魅力を持っていたことに説明がつく。

 そうに違いないと思った。

 そしてあの不思議な少女は悪い存在には見えなかった。


(じゃぁ――これは、吉兆では!?)


 葵は思い込みが激しいところがある。

 だからこそ、不妊の苦しみに一層押しつぶされそうになっていた。

 でも座敷童みたいな少女に出会ったことで、久しぶりに暗い気持ちもなく、前向きに、そして付き合いたての頃のように燃え上る気持ちで子作りに励めたのであった。




    ◆




 マネージャーの浩二は、そわそわしていた。

 マキの帰りが遅いからだ。

 温泉好きの彼女はいつも長風呂ではあったが、それにしても長い。


(もしかして風呂でなにかあったのか?)


 直接女湯に入って確認することはできないため、旅館のスタッフに声をかけようと立ち上がったとき、子ども用の浴衣を着たマキが帰ってくる。


「随分長かったな」

「色々あってね。さすがにちょっとのぼせたかも」


 そう言いながら窓際にある広縁で椅子に座った。

 アチーと手で顔を仰ぎながら、ぐでっとしている。


(おっさんか……)


 だらしないマキの姿に呆れてしまう。


「ねぇ、見て」


 いつの間にか、マキが巨乳になっていた。

 顔や身長は変わらぬまま、胸だけが大きく成長している。


(ここの温泉には巨乳化の効能でもあるのか!?)


 いや、落ち着け。

 浩二は自分に言い聞かせた。

 何か詰め物をしているのだろう。


 確かにマキは演技の天才だ。

 だが自分の身体を変えることはできない。

 だからあの胸はニセモノだ。

 彼女の迫真の演技で、まるで本当に巨乳になってしまったかのように見えているだけなのだ。


「男の人は大きいおっぱい好きだよねぇ」

「いや、別にそんなことは……」

「私の大きいおっぱいに、いやらしい視線を向けてた癖に」


 マキがニセモノの胸を下から手で支えるように持ち上げた。

 はしたない真似は止めてほしい。


「それが男のサガだから、仕方ないよね」


 マキがうんうんと頷く。

 彼女は不思議な少女だ。

 女の子でありながら、男性的な視点も持っている。

 天才が故の独特な感性なのだろうか。


「私は大きくなるのかなぁ」

「どうだろうな」


 マキの母親は巨乳だ。

 その遺伝子を受け継いでいる彼女が巨乳になる可能性は低くない。


「ふ~ん」


 口にしただけで、そこまで気にしていないようだ。マキは浴衣の胸元に手を突っ込み、胸につめていたバスタオルを抜き取る。

 胸元からバスタオルを抜き取ったことで、浴衣の襟が広がっていた。

 そんな緩んだ格好のまま、マキはローテーブルの上に置いてあるお茶を飲もうと座布団の上に座る。


「あっ」


 思わず、声をあげてしまう。

 大事な場所こそ見えなかったが、彼女の胸元がはっきりと見えた。

 まだまだ子どもではあるが、膨らみ始めている胸が、浴衣の隙間から覗いていた。

 そこに浩二は女を感じとってしまう。


(相手は子どもだぞ!?)


 おかしなことを考えるなと心の中で己を叱咤する。


「ん~?」


 マキは浩二の視線に気がつき、特に慌てる様子もなく衣服を正す。

 そしてニヤリと笑って浩二を見上げがら告げた。


「このロリコンめ」




    ◆




 とある夫婦はソファーに座ってテレビを見ていた。

 隣に座る男がふと呟く。


「そろそろ名前を決めないとな」


 女は大きくなったお腹を撫でながら頷く。


「もしこの子が女の子なら名前はもう決めているの」


 テレビでは天才子役として、山下マキが特集されている。

 その活躍する様を見て嬉しそうに微笑みながら、女は告げた。


 ――女の子なら、名前はマキちゃん。


「ミーハーだなぁ」


 男は呆れている。

 天才子役の山下マキにあやかってつけたと思われているらしい。


「あはは」


 そうであって、そうではない。

 愛する夫に対してさえも、その真意を説明することは躊躇われた。

 あの温泉での出来事は――2人だけの秘密なのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る