1-4
幼稚園教諭の谷口由衣は一年目にしていきなり、年中組のクラスを一組受け持たされている。
むらさき幼稚園・ばら組の園児の数は21名。
ばら組の部屋の中で、園児たちは自由に動き回っていた。
「はい、ちゅうもーく!」
彼らの注目を集めようとしたが全然効果がない。
玩具に興味を持って、すみっこで黙々と遊んでいる子もいれば、女の子に泣かされている男の子もいる。由衣のスカートをめくろうとするおませな悪ガキもいる。
経験の浅い由衣にとっては彼らをまとめることは容易ではない。
彼女を指導し、フォローする立場であるはずの学年主任は、放任主義というか、事なかれ主義な面があり、ろくに指導をしようとしない。
(逃げちゃダメよ、由衣)
己に逃げてはならぬと言い聞かせる。
熊本県のしがないラーメン屋を営む夫婦の間に彼女は生まれた。高校を卒業して、「こんなところで一生を終えるのは嫌だ」と親と喧嘩するような形で上京し、専門学校へと入り、そして今、東京で幼稚園の教諭の職についている。
親子関係は、学生時代は壊滅的であった。だが今は由衣もある程度落ち着いて、両親との仲は修復されていた。
――仕事に疲れたら、いつでも戻ってきて良いんだよ。
両親と電話する度に、彼らは戻ってきてもいいと言う。
由衣には実家に戻るという逃げ道が存在するのだ。
だから仕事が嫌になったとき、向いてないと感じたとき、全てを放り投げて実家へ帰ろうか、という考えが頭によぎってしまう。
天涯孤独の身であれば、背水の陣のごとく決死の想いで打ち込めたかもしれない。
彼女にはいまだ親に対する甘えがあった。
園児たちはその甘えを本能で見抜いているのだろう。だからなめられてしまう。
「うぅ、みんな聞いてよぉ……」
ワイワイガヤガヤ。
自重を知らない子どもたち。彼らは空気を読んだりしない。由衣が目に涙を浮かても関係ない。
経験豊富な先生であれば、大げさに泣いたフリをして園児たちの罪悪感を利用する程度のことはやってのけるだろうが、由衣は園児たちには気づかれない程度にひっそりと涙を流している。
学級崩壊まったなしのばら組だが、それでも今までなんとか過ごせているのは一人の園児のお陰である。
「マキちゃん。みんなを集めてほしいの」
「またですか」
「お願い!」
園児に両手を合わせて頭を下げる姿には、威厳のかけらも存在しない。
「はぁ……分かりました」
山下マキという少女はしっかりしていて、他の園児たちの面倒をよく見ている手のかからない子どもだ。
同じ年中組であっても、大人びている子どももいれば幼い子どももいる。
成長度合いは人それぞれであるものの、基本的には生まれる月によって左右される。
いわゆる早生まれの子どもたちはやはり幼い子どもが多いし、4月や5月に生まれた子どもは比較的大人びているものだ。
新人の由衣から見ても、山下マキは群を抜いて大人びていたが、彼女の誕生日は10月であり、真ん中ぐらいだ。他の園児より抜きん出て早く生まれた訳ではない。
彼女が大人びているのは、彼女自身の素質のお陰なのだろう。きっと将来大物になるんだろうな、と漠然とだが感じていた。
「みんな、先生が話があるってさ」
由衣には見向きもしなかったのに、マキが言っただけで大半の子どもたちが集まってくる。
そして一部のはみ出し者に対しては個別に声をかけていく。飽き性の子や、極度の引っ込み思案の子など、厄介な問題児たちも、自発的に従い始める。
(いやー、凄いなぁ)
毎度のことではあるが感心してしまう。
過去にマキの行動を参考にして園児を制御しようとしたこともあるが、早々に断念してしまった。
彼女はそれぞれの子どもが求めるものを理解していて、それをうまく刺激する形で誘導しているようなのだ。
ほれぼれするほどに見事な手腕だ。園児が何を求めているかなんて全く分からない由衣には、到底不可能な方法である。
こほん、とマキが咳をして由衣を促した。
「あっ、えっとねぇ、今度のお遊戯会で劇をやることになりました。題目はずばり、『白雪姫』です!」
「げきー! しらゆきひめー! お姫様だー! えー、つまんない!」
園児たちが騒ぎ出す。
あわわ、と焦っていると、マキが手をパン、パンとゆっくり二回叩いた。
それは絶妙なタイミングであった。
由衣に任せていては話が進まないと判断したのだろう。マキが園児たちの希望をできる限りかなえながら配役を割り当てていく。
これでは誰が先生なのか分かったものではないが、由衣は「いやー、楽ができて良いなぁ」と呑気に眺めていた。
そして、あっさりと役決めが終わる。
進行役であったマキ本人の配役が決まっていないことに気付く。
「マキちゃんの役は?」
「あぁ……私は木の役でもやっておきます」
「白雪姫役をもう一人増やしても良いんだよ?」
「もういっぱいいますから」
幼稚園の劇は一つの役を一人で演じるとは限らない。同時に複数の子どもが、同じ役で登場し、同じセリフを口にしたりする。
やはり子どもには王子やお姫様の役が人気だ。小人を演じる子どもの数よりも、白雪姫や王子様を演じる子どもの数の方が多くなっている。幼稚園の劇はそんなものだ。
「うーん、でも折角だし……」
「大丈夫ですって」
彼女自身は納得しているようだが、さすがに親御さんに申し訳なく思う。
愛する子どもの演技だ。どんな役であっても、一番輝いているはずだ。とはいっても、できれば主役をやってほしいというのが親心だろう。
大人びてはいても、その辺りに気が回らないところは、まだまだ子どもなんだなと少し安心する。
「知ってますか、先生」
「なにを?」
「木の演技って凄く難しいんですよ」
由衣がマキに抱く印象は『変な子』である。
教諭経験も浅く、多くの子どもを見てきた訳ではないが、マキが変な子であることは間違いない。
変ではあるが、由衣の仕事を楽にしてくれるし、特に不都合はないと思っていた。
――彼女の誤算は、想像しているよりもマキが変な子であったことである。
しがない幼稚園教諭であった谷口由衣は、山下マキの担任になってしまったがゆえに、その人生を大きく狂わせることとなる。
◆
園児が暴れて怪我をして、保護者から大罵倒をくらって謝罪に追われていた日のこと。
傷心の由衣がマキに尋ねた。
「私って先生に向いてないのかな」
「うん」
「じゃあ、何が向いていると思う?」
「ラーメン屋」
「……そっかぁ、ラーメン屋かぁ。そうだよねぇ、あはは」
由衣の実家はラーメン屋だ。だが上京してから誰にも話したことがなかった。保護者はもちろんのこと、同僚やこっちでできた友人にも話していない。
実家がラーメン屋であることは由衣にとって汚点だったため、ひた隠しにしていたのだ。
にもかかわらず、マキはラーメン屋が向いていると言った。いつも周囲をよく見ている彼女が、だ。
(あの子がそういうのなら、私は本当にラーメン屋が向いているということなのだろう)
実家の仕事を継ぐのは嫌だ、と意固地になっていた気持ちは、マキの一言によってあっさりと吹っ切れた。
由衣は年中組の担任を1年間続けたあと、あっさりと教諭の職を辞めて実家に戻った。
ちなみに、前の日にラーメンを食べたから、ラーメン屋が向いていると適当に言っただけであることは、山下マキが墓場まで持っていくと決めた秘密である。
実家へと戻りラーメン屋を継いだ由衣であるが、ここから更に山下マキの影響を受ける。
年中組のお遊戯会で演じた『白雪姫』が、一般的には山下マキが初めて行った演技とされている。偶然その演技を見ていた芸能事務所の人間が、マキをスカウトした。言うなれば、お遊戯会こそが伝説の始まりだ。
由衣は当時の担任として、たびたびテレビに出演させられるハメになる。
マキが恩師に再会する系の番組は度々企画され、そのせいで何度もマキと感動の再会を果たすこととなった。
時折連絡を取っていたり、マキが彼女のラーメン屋にラーメンを食べに来たりすることもあるため、実際のところ、感動の再会ではない。
だがマキの熱演に引きずられ、毎度毎度、再会に号泣してしまう。
そんな号泣の再会シーンがよくテレビで放送され、『マキちゃんの恩師』として知名度があがった結果、彼女のラーメン屋が大ブームとなる。
日本全国にチェーン展開を果たし、『谷口ラーメン』ブランドを確立させる。
そして、山下マキが世界的な女優となった後は、あの山下マキが愛したラーメン、として、『谷口ラーメン』が世界に展開していくこととなる。
仕事面では、忙しくも順風満帆な日々を送る由衣だが、恋愛面では散々である。
由衣が教え子との再会で号泣する場面をテレビで見ていた視聴者たちは、なんと可憐な女性だろう、と勝手なイメージを抱いてしまう。
アプローチしてきた男性と付き合っても、大抵がそのイメージとのギャップが原因で破局となる。
特に酷かったのが、熊本の地方銀行に勤める男と付き合ったときだ。
彼は由衣の男勝りな一面を見ても優しく受け入れてくれて、真剣に結婚を考えていた。その考えが崩れ去ったのは、彼と付き合いだしてから初めてマキが訪れたときである。
「うぉぉ、マキちゃんだ!」
いつも穏やかだった彼は、山下マキを前に豹変した。
デレデレと鼻の下をのばし、見たことがない嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
あまりの変貌ぶりに、彼を問い詰めると白状する。
彼は『マキちゃん信者』だったのだ。マキと合法的に近づくために、由衣と付き合っていたらしい。
子役時代に、山下マキはあるドラマに主演した。
女子小学生と成人男性のアブノーマルな恋を描いたドラマが放送されたところ、彼女の魅力が原因で大量にロリコンが生産されたという。
由衣の彼氏はその一人であり、熱狂的なマキちゃん信者であったのだ。
当然すぐに別れた。
以降、由衣はもう恋をしないと誓っている。
「だいたいあの子のせいで、だいたいあの子のお陰」
マキについて語るとき、由衣はいつもそう答えるのだった。
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