4-1
山下マキの朝は早い。
彼女は小学生だが、同時にお茶の間によく知られている人気子役でもある。
小汚い姿で外に出る訳にはいかない。
朝食をとり、寝ぐせをなおしていると、背後から声がかかる。
「ぅぅ、おはよう」
寝ぼけながら挨拶をするのは母親の朱里だ。
近所の男たちに人気の朱里だが、どうやら朝が苦手らしい。
「おはよう、お母さん。今日もお仕事頑張ってね!」
「お、おぉ! お母さん頑張っちゃうぞ!」
実のところ、マキの役者としての稼ぎがあるから、朱里はもう働く必要もない。でも、金銭感覚がおかしくなりたくないという理由で、週に3回、10時から15時の間働いている。
以前のブラックなスーパーとは違う職場で、人間関係もいいらしく、今の彼女はとても輝いている。
元々可愛らしい容姿をしているが、より一層魅力を増しているように思う。
「それじゃあ行ってきます」
「虐められたらお母さんに言ってね?」
「心配しなくても上手くやってるから大丈夫だって」
子役は学校でいじめられることが多いという話を聞いて以来、いつも朱里はマキのことを心配している。
毎度のことなので適当にあしらいながら、軽く変装用にマスクを着用し、学校で指定されている革靴を履いた。
「行ってきます、お母さん」
「行ってらっしゃい、マキ」
母親と挨拶を交わして家を出て、最寄りの駅へと向かう。
マキは小学生ながら電車で通学している。
今のマキの家は、かつての市営住宅ではない。ある程度金銭的な余裕ができたため、事務所の傍に引っ越している。夜までレッスンや撮影を行うこともあるため、事務所やスタジオが近い場所を選んだ。
学区内の公立の小学校は、マキの芸能活動の実態と合わないため、少し離れた私立の学校へと通うこととなっていた。
「ぬぉぉ」
できすぎた小学生のマキだったが、都内の通勤ラッシュにはよく苦戦している。
得意の演技や要領の良さは、押し込まれた人ごみの中では通用しない。
今日もまた働かねばならないことを憂うサラリーマンたちに他人を気遣う余裕は存在しない。
電車が急に揺れて、人の塊が一気に押し動かされる。
小柄な少女のマキは、隣にいるおっさんに押されて踏ん張りきれず、反対側のおっさんのお腹へ顔面から突っ込んでしまう。
「ぎゃっ」
「……チッ」
メタボお腹の脂肪がクッションとなったお陰で物理的な痛みはなかったが、心は痛む。
なんで子どもが朝の電車に乗ってるんだ、というオーラをひしひしと感じる。
少し面倒に思いながらも、おっさんキラーの愛想笑いで謝罪した。
「ごめんなさい」
「あっ……いや、大丈夫だよ。怪我はなかった?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
おっさんほどチョロい生き物はいない。転生して山下マキとなってから、そう思うようになった。
少し愛想よくすれば、舌うちしていたおっさんが、気のいいおっさんに様変わりだ。
押されてしまって立ち上がることもできず、汗臭いぶよぶよしたお腹を枕にしながら、満員電車をなんとか耐えて、大きいターミナル駅に到着する。
(ここだ!)
最初に失敗した陣取り合戦の、挽回をするチャンスだ。
一気に降りて、一気に乗り込んでくる。そのわずかな時間を利用して、扉の横にある隙間へと移動した。
聖域を確保したことで一安心である。
(ようやくひと息つけた)
目の前には青年がいる。彼は、自分が子どもを押しつぶしてしまわないか心配になっているみたいだ。
ニッコリ笑って誤魔化せば青年の顔が赤く染まる。
マキにとっては青年もチョロい生き物だった。
暑苦しい満員電車もあと少しで終わろうかというところで事件が起きる。
「こいつ痴漢!」
女子高生がおっさんの手を掴みあげていた。
先ほどマキの枕となったメタボおっさんである。
「え、ち、違います」
おっさんは顔を真っ青にしている。
普通に電車に乗っているときも汗をかいていたが、より一層の汗が顔に浮かんでいた。
彼の心情を考えれば仕方のない話だろう。
それもそのはず、おっさんは痴漢行為を全くしていないからだ。
彼らの様子は見えていたが、おっさんが女子高生に触った様子もなく、カバンや肘が知らない内に接触している訳でもなかった。
そして、女子高生がおっさんに見えない位置で悪どい表情をしていたのもバッチリと視認していた。
これはいわゆる、痴漢冤罪というやつだろう。
(キターーーー!!)
退屈な通勤時間に突如訪れた非日常に内心で喜んでいた。
なにごとも卒なくこなす万能人間のマキは、新しい刺激には敏感なのだ。
「駅員室行くぞ」
「いや、ほんとにやってないんですって」
「良いから来いって」
半ギレ風の女子高生と怯えた様子のおっさん。
その光景だけ見ていると本当に痴漢したようにも思えるから不思議だ。
周りの乗客や通行人たちも冷ややかな目でおっさんを眺めている。
絶望したおっさんが駅員室へと連行されていった。
野次馬根性を発揮してその後ろを尾行する。
「本当にやってないんですって」
「はぁ!? 触っただろ!」
「本当にやってないんですよ」
「警察よんでもらっていいですか」
「えっ……いや、警察は勘弁してください」
「じゃあ、やったんだろ?」
「やってないですよ。信じてください、駅員さん」
「うーん、証明できる目撃者がいないとねぇ……」
「そんな……」
被疑者側がやられたことを証明するのではなく、容疑者側がやってないことの証明を必要とされている。
疑わしきは罰せずの法治国家にあるまじき展開だ。
これはなんとかせねば、と義憤にかられた……訳ではなく、単純に面白そうだったから首を突っ込んだ。
「目撃者は私だァ!」
「「「えっ?」」」
「私、見てました。この人は痴漢なんてしていません」
デタラメではない。
扉の横に陣取っていたマキからは、つり革に捕まるおっさんの姿が良く見えたのだ。
痴漢に関しては女性の意見が優先されることが多い。
駅員も女性側の証言を信じるものだ。本当に痴漢だった場合のことを考えれば仕方のないことだろう。
だが今回は冤罪だ。そして女性の証言は確かに有力だけれども、純粋な子どもの証言があれば話は別だ。
「あ、ありがとう、君!」
「……だそうだけど?」
おっさんの劣勢は一気にひっくりかえった。
女子高生に同情的だった駅員の顔は、いつの間にか冷ややかになっていた。
意図的に痴漢冤罪を行ったのではないか、と駅員に強い剣幕で問い詰められて、女子高生は泣きそうになっていた。
そしておっさんが調子に乗り始めて、駅員の後ろでニヤニヤしている。
駅員は顔を真っ赤にしながら続けた。
「分かるかな? これ犯罪だよ? 人ひとりの人生を破滅させようとしてたんだよ?」
「うぅ……ご、ごめんなさい」
「泣いたって無駄だし、謝ってすむなら警察はいらないから」
「えっ、警察……ですか? それはやめてください!」
「君は警察をよばれて当然の行いをしたんだ。ちゃんと反省してもらうためにも警察を呼ぶ」
「そんな……」
「あ、あの……被害もなかったですし、このあたりで手打ちということで良いんじゃないでしょうか」
「あなたは甘いんです! こいつはクズですよクズ! こいつみたいな冤罪犯がいるせいで、罪のない男性たちが罪に問われ、実際に痴漢被害にあう女性たちが誤解されて傷つくんですよ」
ヒートアップした駅員さんの姿に、おっさんもドン引きしているようだ。
彼ら駅員たちにとっては痴漢と痴漢冤罪は大きな問題なのだろう。
だから、こんなにも熱くなってしまう。とはいえ少し見苦しい。
「駅員さん」
「ん……なんだい?」
「おねーさん、十分反省してるよ?」
「あぁ、もっと反省してもらわないとな」
「これ以上怒ったら可哀想、だよ?」
「ぐっ……」
マスクで口元を隠しているが、マキは天才役者だ。
その目だけで相手の心を揺さぶることなど造作もない。
駅員は、純粋で悲し気な瞳を直視することができずに顔をそむける。
そして――
「逃げましょう!」
「「えっ」」
「あっ、ちょっと君たち! 待ちたまえ!」
二人の手を引っ張って駅員室から飛び出す。
そして、マキたちは近くの公園で一息をついていた。
女子高生とマキがベンチに並んで座っているが、その隣のベンチでは、おっさんがゼェハァゼェハァと声を出しながら倒れている。
「ありがとね」
「礼を言うのは私じゃないですよ」
「うん、そうだよね」
グッと決意をして、彼女は死にかけのおっさんの元へと歩いていく。
もう少し待ってからでも良いのではないだろうか、と思いながらも折角の決意に水を差すのも無粋かと静観した。
「あの……」
「な、なんだい……はぁ、はぁ」
「酷いことしてごめんなさい、それと、庇っていただいてありがとうございます」
「いや、いい、はぁ、よ……はぁ」
照れているのだろう。デレデレと笑っている。
大量の汗も合わさって非常に気持ち悪くて犯罪的だ。
その様子を見て、女子高生も引きつった笑みを浮かべていた。
やがて、おっさんの呼吸も落ち着き、三人で談笑していると、おっさんが切り出した。
「でも君、どこかで見たような気がする」
「子どもにナンパとかおっさんやばいよ!?」
「そうじゃなくて、本当にどこかで見たような気がするんだ」
マキが通学時にマスクをつけているのは、余計な混乱を避けるためだ。
だが、こうして仲良くなった人相手に素顔を晒すことに抵抗はなく、マスクを外した。
「「マキちゃん!?」」
「はい。改めまして、山下マキです」
女子高生もおっさんも、子どもの正体があの山下マキだと気がついて驚愕する。
ネットやテレビに触れている者であれば、マキを知らない者はいないだろう。
国民的子役になりつつある芸能人と遭遇したことに、驚きを隠せていない。
「サイン貰ってもいいですか?」
「はい、構いません」
「みんなで写真撮ろう!」
おっさんがペンと紙を探していると、女子高生がスマホで写真を撮ろうと提案する。
サインを選ぶおっさんと写真を選ぶ女子高生、世代の違いを感じる反応だな、とマキはのんきに考えていた。
「じゃぁ、撮るよー。おっさん、もっと寄って」
「は、はいぃ!」
朝の公園でおっさんと女子高生と女子小学生の3人が集まって写真を撮る。なんと不思議な光景だろうか。
女子高生が撮った写真を確認していると、突如大きな声を出した。
「あぁ!? もうこんな時間!」
「「あっ」」
そして、それぞれが遅刻の危機に気が付いて慌てて別れるのであった。
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