2-5
『子ぎつねとわたしの30日間』では、主に森の中にある動物診療所が舞台となる。
野生の動物の保護や診療を行う獣医役を演じる俳優・西村涼太は、二回り以上年下の少女にライバル心を燃やしていた。
この映画の企画は、主役の山下マキありきで始まったとも言える。
マキに惚れこんだ監督、マキを更に売り出したい芸能事務所、人気急上昇中のマキにあやかりたいスポンサー。
様々な人たちの意向によって、マキが主役に選ばれた。
事前に決まっていた配役は彼女だけで、他のキャストに関しては厳しいオーディションが行われた。
その結果、主役の次に重要となる獣医の役を涼太が勝ち取ったのだ。
中々に厄介なオーディションだった。課題として出された即興の演技が曲者だった。
オーディション会場に一匹の子犬がいて、その子犬を用いて悲しみを表現するというものだ。
子犬のストレスを考慮して何匹かの犬が用意された。
十人十色ならぬ、十犬十色とでも言うべきか。犬がどんな状態であるかは運に左右され、そのときになってみないと分からない。
自由な犬に対応するアドリブ力が求められる厄介な課題であったが、上手くできた自信がある。
現に獣医役を勝ち取ったことがその証だろう。
だが後日、本読みの稽古の際に監督から告げられた。
「もし仮に、君とあの子が同じ役のオーディションをしていたら、俺は間違いなくあの子を選んだ」
「……事務所の力ですか?」
涼太は比較的小さな事務所に所属している。
そこから少しずつキャリアをつんでいき、ようやく今の実力派俳優の地位を得た。
だからマキのような大きい事務所のバックアップがあるものを羨ましく感じてしまう。彼らは大した実力が無くても、ゴリ押しによって簡単に役を獲得する。
「いいや、実力だよ。彼女にも子犬と演技をしてもらった。君より彼女の方が優れていた。それだけだ」
「俺が実力で負けているということですか?」
「あぁ、彼女はものが違う。あのエチュードで誰もが子犬に合わせた演技をしていた。だが彼女だけは、自分の演技に子犬を引きずり込んでいた」
「犬が演技に反応した……と?」
「あぁ、そうだ。悲しむ彼女を、子犬が慰めていた。私は彼女たちを見て、一緒に暮らす一人と一匹に見えたよ」
動物は表面だけの演技には惑わされない。
それでも動物が影響されるのなら、それだけ真に迫っていたのだろう。
「そんなこと、可能なんですか?」
「撮影が始まれば君にも分かるだろう」
意味深に笑う監督の言葉が、俳優としてのプライドを傷つけた。
キャストや主要な撮影スタッフが一堂に会する本読み当日、彼は小学一年生の少女に負けるものかと燃えていた。
「治療してどうなる? 苦しみが長引くだけだ」
「先生は動物のお医者さんじゃないの?」
台本の読み合わせで、マキと涼太の二人が会話をするシーンとなった。
視覚・聴覚・嗅覚を失った狐には安楽死こそが救いだと獣医が判断を下す。
ただ一心に子ぎつねを思う無邪気な子どもが、その判断が本当に正しいのかを暗に問いただすような場面だ。
(上手い……)
机を挟んで反対側に座るマキに瞠目する。
台詞の奥に深い感情があった。役に対する理解が浅ければ、もっと表面的な演技になるだろう。役になりきっている。
涼太は気合を入れなおした。
共演者がただの子役という認識でのぞんでいては、少女らしからぬ演技力に呑まれてしまうだろう。
そして、台本の読み合わせや衣装合わせが終わり、近くの居酒屋で親睦会が行われることとなった。
「かんぱーい!」
読み合わせの段階で、涼太は役者としての力量がマキに劣っていることを感じ取った。
恐るべき子どもである。だがこのまま負ける訳にはいかない。彼女は凄い。でもきっと手は届くはずだ。
お酒を飲んで酔いが回った涼太はマキに宣言する。
「俺はお前に負けないからな!」
「はい、私も負けません」
◆
「なんだこれ」
涼太は理解不能な光景を見て呟いてしまう。
どうなっているのだろうか。
(こんなの勝てるはずがない)
動物には演技が通用しない。
いかに仮面を被ろうとも動物は素顔を感じ取る。役者がいかに演技をしようとも動物は役者自身を見ている。
だが山下マキにはその常識が意味をなさない。
まだ慣れ親しんでいない関係や心を許しきった関係を見事に演じ分けている。
いや、役者がそれを演じることは可能だ。涼太も実力派で売っている以上、それくらいはできる。
だが動物側は別である。役者側がどのような関係性を演じたところで動物には通用しない。
しかし、子ぎつねはマキの演技に引きずられていた。
「くすぐったいよ」
網走の大草原で一匹の子ぎつねと一人の少女が戯れていた。
抱っこされた子ぎつねが、少女の顔を舐める。彼らは互いに信頼しきっていて、まるで姉妹のようであった。
そして、また別のシーンが撮影される。
「ほら、牛乳だよ。飲みな……飲みなって!」
場面は変わり、診療所の中で少女が子ぎつねにミルクを飲ませようとするところを撮影中だ。
ミルクの臭いを消して、子ぎつねがミルクに興味を示さないようにしたり、色々と工夫が施されているが、驚くべきことは別にある。
脚本上、弱っていた野生の子ぎつねを拾ったばかりであり、彼ら一匹と一人の関係性はまだ構築されていない場面だ。
撮影スケジュールの絡みで草原での演技が先に撮影された。
信頼し合っている関係を撮った後に、出会ったばかりの関係を演じることになった。
(正直、無理だと思っていた)
草原ではあれほど仲の良い関係性を示していたにもかかわらず、子ぎつねは少女を警戒していて、腕の中から逃げ出そうともがいている。
動物に演技はできない。本能のままに行動する。
にもかかわらず、求められている動きを示していた。マキの演技が子ぎつねを動かしているのだ。
「こんなこと、有り得るんですか」
「いや、ないですよ……」
アニマルトレーナーの犬飼に尋ねる。
彼女もまた、マキと子ぎつねの演技を呆然と眺めていた。
「むしろどうやっているのか教えてほしいぐらいです」
◆
犬飼はアニマルトレーナーとして様々な映画やドラマの撮影に携わってきた女性だ。
だが山下マキのような役者は見たことがない。
演技派と呼ばれる役者たちであっても動物との距離感には苦労している。人を相手にすることと、動物を相手にすることでは訳が違う。彼女のように自由自在に距離を変えることは不可能なはずだ。
「くぅーん」
診療所では犬のラブラドールレトリバーを飼っている設定があるため、撮影用にララという犬を連れてきている。
知らない場所で大勢の人間に囲まれてストレスが溜まっているのか、伏せをして顔を埋めたまま頑なに動こうとしない。
犬飼が声をかけたり撫でたり、餌をあげたりするも上手くいかない。
「厳しそう?」
「はい、すいません……」
監督が渋い顔を示す。
動物は人間の思い通りにならないとはいえ、やはりスケジュール通りに撮影できないことは辛い。
「私に任せてもらえませんか?」
「いや、しかし……」
「やらせてみましょうよ、犬飼さん」
どうしたものかと思案していると、山下マキが任せてほしいと申し出た。
監督に促され、犬飼も一度任せることに決める。
もしかすると彼女ならば、という予感があった。
「おいで、ララ」
スタッフたちがザワついた。
あれだけ動かなかったララがマキに従って歩き始めた。
そしてあっさりと撮影ポジションに座り込んだ。
犬飼が何をしてもダメだったのに、彼女は簡単にララを動かした。アニマルトレーナーとしての面目丸つぶれである。
「おい、今のどうやっているんだ。コツを教えろ」
「負けを認めるんですか?」
「最終的に勝てばいいんだよ」
マキをライバル視している西村涼太がケンカ腰に尋ねる。
犬飼も知りたかったことであり、二人のやり取りに注目した。今後の仕事に活かせるかもしれない。
「んん~、動物は本能で判断するんですよね」
マキはララに近づいてその頭を撫でた。
ララはまるで母親の傍にいるかのように安らかな表情を浮かべている。
「魂で演技すればいいんです」
「いや意味分かんねぇし」
「こんな感じですよ」
ほほ笑みながら撫で続ける。
何をするつもりだろうか。皆がその様子に注目していた。
次の瞬間、ララが悲鳴をあげてマキから離れた。
「えっ?」
ララを叩いたり、毛を引っ張ったりして傷つけた訳ではない。声も出していない。マキはただ撫で続けていただけだ。大きな変化はなにもなかった。
しかし、突然ララが怯えを露わにして唸っている。あれだけ懐いていたはずのに、ララはマキに恐怖を抱いていた。
「ごめんね、怖がらせて」
マキが謝罪すると、今度はマキに近づき、顔をぺろぺろと舐めはじめた。
先ほどまでの怯えが嘘のようだ。
少女はくすぐったそうに笑いながら言う。
「こういうことです」
誰も言葉がでなかった。理解の範疇をこえていた。
犬飼は天才という単語しか思い浮かばなかった。
彼女も業界にかかわる人間であり、様々な天才子役と仕事をしたことがある。
彼らは天才子役であって天才ではない。『子どもにしては凄い』から天才子役なのだ。
だが山下マキは正真正銘の天才であった。
ふと、傍にいた西村涼太の姿が目に入った。
(恐れ、いや、絶望だろうか)
彼は無言で立ち尽くしていた。
仕方のないことだと犬飼は思う。
犬飼の仕事はアニマルトレーナーで、山下マキの仕事は役者だ。互いにその領分を荒らすことはないと分かっている。
しかし西村涼太は同じ役者だ。だからこそ、マキの理不尽さを肌で感じて茫然としてしまうのだろう。
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