番外編 八百屋とマキちゃん

コミカライズの話もあり、完結しっぱなしにしておくのも味気ないなと思い、今後は月一回程度の頻度を目標に、番外編を投稿していきたいと思います。

番外編は時系列バラバラです。設定も本編と矛盾している部分もあるかもしれません。



 八百屋のみっちゃんと呼ばれる男、三井道夫(みつい みちお)は、商店街の八百屋の営業をする傍ら、しきりに腕時計で時刻を確認していた。


「あんたまた時間を気にして、そんなにあの女が待ち遠しいのかい!」


 当時の可憐さは見る影もなくなり、太ったおばさんとなった妻が嫌味を言う。


「うるさい! 俺の唯一の癒しなんだ。邪魔するんじゃねぇ!」

「呆れた……勝手にしな」


 妻は不機嫌そうに言い捨てて、店の奥に戻っていった。


(今日は晩飯は期待できねぇなぁ……)


 妻の態度に落ち込みつつも、道夫は斜め向かいの魚屋の店長が姿勢を正して身だしなみを整え始めたことに気がつく。


(来た!)


 道夫も身だしなみを整えつつ、ある女性が来るのを待った。目当ての人物が魚屋に声をかけられている。

 どうやら彼女は魚料理の気分ではないらしい。必死に言い寄る魚屋に申し訳なさそうにしながら断っていた。


(魚は買わない日もある。だが八百屋は違う!)


 野菜や果物は毎日の食卓に必ずあがると言っていい。

 悔しそうな魚屋の店長を見てほくそ笑みながら、道夫は女性に声をかけた。


「いらっしゃい朱里ちゃん!」


 道夫の目当ての女性、山下朱里は「こんにちは」と朗らかに返してくれる。

 朱里は24歳の若い美人女性だ。

 土曜日のこの時間になると、いつも4歳の娘と一緒に商店街に買い物に来ている。

 悪い男に引っかかって子どもを妊娠し、大学を中退してシングルマザーとして子育てしているらしい。


(なんて健気なんだ)


 道夫が朱里を気にするのは、彼女の境遇に同情したからでもあるが、それ以上に彼女が美人だからだ。


 高嶺の花ではない。手を伸ばせば届きそうな、隙の多そうな美人。口元にあるほくろがチャーミングで胸が大きい。

 道夫は朱里の笑顔が好きだった。目が垂れて、ぽわぽわした笑顔には、見ている方も癒される。


「今日はカレーにしようと思いまして」

「カレー♪ カレー♪ カレー♪」


 朱里の子どものマキが嬉しそうにはしゃいでいる。


 ――稼ぎはあまりありませんが、せめて栄養豊富な食材をたくさん食べてほしいんです。


 かつて、朱里がそう言っていたことを思いだす。

 自分の境遇にもめげずに娘思いの素晴らしい女性だと思う。


「そいつはちょうどいい。玉ねぎもニンジンもじゃがいもも、どれもいいやつ入ってるぜ!」


 道夫はカゴに野菜を放り込んでいく。

 そして、朱里に値段を告げた。


「その……良いんですか?」


 道夫はかなりの額をサービスしている。

 昔は分からない程度におまけしていたが、今は露骨に分かるレベルの値下げだった。


「良いってことよ! マキちゃんに良い野菜をたくさん食べてもらって、野菜が好きな大人になってもらいたいんだよ」

「そう……ですね」


 朱里という女性は優しい人だと思う。こちらが明らかに値下げをすれば、申し訳なく感じてしまう。

 でも娘を引き合いに出してやれば、朱里はその提案を受けるということは把握済みだった。


「ありがとうございます!」


(これよこれよ!)


 お礼を言う朱里の笑顔に道夫の胸が高鳴る。

 妻とはえらい違いだ。きっと彼女となら幸せな夫婦生活がおくれるだろう。

 そう思っていたら、自然と声をかけていた。


「なぁ朱里ちゃん、今度一緒にお茶でも――」

「早く行こうよ!」

「わっ、ちょっと待ってマキちゃん」


 朱里を強引にマキが引っ張っていく。

 彼女たちの姿を眺めながら、道夫はため息をついた。


「何をやってるんだ俺は」


 他の店で買い物しているときに、マキが一人で、たたたた、と走って戻ってきた。


「ねぇ、おじちゃん」

「なんだい? お母さんとははぐれたのかな?」

「抜け駆け禁止だよ」


 道夫にはマキの言う内容に一つ心当たりがあった。

 それは朱里のことだ。

 商店街の男たちはみな、朱里の大ファンだ。

 彼女に優しくしたい。笑ってほしい。そしてあわよくば……と考える者が多発したため、抜け駆けを禁止する同盟が組まれたのだ。

 だがしかし、4歳のマキが同盟のことを知っているはずがないとも思った。


「な、なんのことだい?」

「しらばっくれるの? じゃあ他の店のおじちゃんたちにチクっちゃおうかなー?」


 どうやらマキは同盟のことを知っているらしい。そしてみんなにバラすと言っている。

 バラされたら最後、商店街の男たちから村八分扱いだろう。それは非常に困る。


「ん!」


 マキが両手を上に向けながら、腕をこちらに伸ばしている。


「黙ってあげるから、果物ちょーだい」


(大した子だなぁ)


 呆れるより、むしろ感心しる。

 可愛らしい脅迫に対して、旬の果物を一つ渡してあげた。


「ありがとうおじちゃん、大好き!」


 ――はぅぁ!


 そんな声が漏れた。

 満面の笑みだ。4歳の少女が本心からお礼を言っていることが、本心から道夫に大好きだと言っていることが伝わってくる。

 この日から、朱里ファンだった道夫は、マキファンに変わったのだった。




    ◆




「若い女に鼻の下を抜かすのもいい加減にしな」

「馬鹿野郎! 俺はそんな下心でやってねぇ!」

「はっ! いつもあの女が来る時間になればそわそわしてる癖に」

「お前もやってみれば分かるぞ。今日はお前がやってみろ」

「……えっ?」


 道夫はぽかんとする妻に、旬のミカンを手渡した。

 そして彼女はやってくる。


「こんにちは、お姉さん!」

「あらまぁ」


 妻は小さい子どもにお姉さんと呼ばれて喜んでいる。

 お姉さんって歳でもないだろうに、と道夫は呆れた。


「お嬢ちゃん、名前は?」

「山下マキ、4歳!」

「マキちゃんっていうのかい。よく言えたねぇ」


 妻がしゃがんで、マキの頭を撫でる。

 マキは褒められたことが嬉しかったのか、「むふー」となっていた。可愛い。


「マキちゃんはミカン好きかい?」

「うん!」

「これあげるよ」


 妻がミカンを一つ、マキに渡した。


「ありがとうお姉さん、大好き!」


 ニッと笑いながら元気に走り去っていく。

 妻は少女の背中を呆けた様子で眺めていた。


 大人になっても生意気な彼らの息子たちとは違い、素直で可愛らしい少女だ。道夫の妻はずっと娘も欲しかったと言っていた。

 きっと自分よりも、妻にはより一層刺さるだろうと道夫は思った。


「な? 良いもんだろ?」

「あんた!」


 黙り込んでいた妻が怒り始める。


(怒られるとは思ってなかったんだが……何が気に入らなかったんだろうか)


「こういうことはもっと早く教えなさい!」


(なるほど……)


 商店街の八百屋を営む、三井道夫とその妻。

 彼らは知らぬことだが、商店街の人たちからは、あの夫婦は長くないかもしれないと噂されていた。

 しかし週末になると、夫婦そろって仲良く、そわそわしている姿が見られるようになって、あの2人は安泰だなと思われるようになるのであった。

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